女房に人権なし!?19世紀イギリスでブームになった「妻売り」

当サイトは「Googleアドセンス」や「アフィリエイトプログラム」に参加しており広告表示を含んでいます。

産業革命で貧富の差が開いた19世紀ヴィクトリア朝イギリスには、今では考えられないユニークな慣習が数多く存在しました。その最たるものが、既婚男性が妻を競りにかける妻売り(wife selling)です。
今回は17世紀~19世紀欧州でブームになった妻売りの実態や、その成り立ちをご紹介していきます。

目次

はじまりは17世紀、ナポレオン戦争で未亡人があふれる

1753年に婚姻法が成立するまでの長い間、イギリスには結婚の登記義務がありませんでした。早い話が事実婚が当たり前の世の中で、女性は12歳、男性は14歳から家庭を持てました。
婚姻法成立後の女性には様々な社会的制約が課され、名実ともに夫の付属品として扱われました。
もとより彼女たちは財産の保有・相続の権利を持たず、個人契約を結ぶ権利や収入に必要な手続きを得る権利すら与えられていません。当時は女性の地位が著しく低く、結婚後は夫に尽くし、夫の死後は息子に従うのが美徳とされたのです。そこから離婚が可能になるには、1857年の婚姻事件法成立を待たねばなりませんでした。

婚姻事件法の雛型となる特別法は、どうしても離婚がしたい貴族や富裕層によって、16世紀頃に可決されました。名前の由来は離婚をしない前提の一般法に対し、離婚を認める特別枠をもうけているから。
特別法のもとで離婚を望む夫婦は、まず最初に二人揃って教会裁判所に赴き、夫婦で使っているベッドとテーブルを分ける申し立て(卓床離婚の申請)をします。
この審理が無事通過したのち、今度は通常裁判所にて相手方に損害賠償請求を起こし、これに勝訴したら国会で弁護士や議員を交えた決をとり、最後に莫大な手数料をおさめ、初めて公に離婚が成立しました。

離婚を認める理由は命に関わる虐待や妻の不貞などで、どちらにせよ再婚は許可されません。付け加えると裁判の段取りが複雑な上に莫大な費用が掛かる為、庶民の離婚には大変な困難が伴います。これには一夫一婦制を重んじ、離婚を不徳と見なすカトリックの教義も関係していました。教会で永遠の愛を誓った以上、神様に背くのは許されません。そんな彼等にとって妻売りは、こじれまくった婚姻関係を楽に解消できる抜け道だったのです。
19世紀にさしかかるとさすがに非人道的だと批判が起きるものの、18世紀以前の平民女性たちが、妻売りに抵抗した形跡は殆ど見当たりません。

中世近世の女性は自活手段と意思決定権が限られており、夫に捨てられたら最後、乞食になるか娼婦になるかしか道がありませんでした。17世紀には浮浪者の収容・更生が目的の救貧院(ワークハウス)が誕生しますが、食事の配給すら滞りがちな環境は、彼女たちをひもじく惨めにさせるだけでした。
修道院に入れるのは支度金を積んだ金持ちの娘だけ。最悪子供を抱えて路頭に迷うしかなく、度重なる夫の浮気や暴力に、沢山の女性が泣き寝入りを強いられてきたのです。
それなら旦那のお下がりとして売られる方がマシ。
どのみち離婚の可能性がゼロならば、妻売りに最後の希望を託すしかありません。

この傾向が最も顕著だったのが、1803年から1815年まで12年間続き、欧州全土に大量の未亡人を生んだナポレオン戦争。夫の戦死によって収入を絶たれた未亡人たちは、別の男性と再婚しその扶養に入るのが一般的でしたが、夫の死亡が誤報だと判明した際は、妻売りの体裁を取って改めて譲渡されるなり返還されるなりしました。

NTR三角関係と後悔先に立たずな妻売り悲喜こもごも

妻売りが最も盛んだったのは18世紀~19世紀前半。1804年には妻の浮気現場に踏みこんだロンドン在住の男性が、別れる別れないの口論の末に間男の提案を受け、彼女を売り渡すことに同意しました。当時まだ現役だった姦通罪の適用で揉めるより、三者合意のもとでトレードするほうが傷が浅いと解釈したのです。

身も蓋もない言い方をすればNTR出来レースのようなもので、売られる相手は既に決まっており、何ら面識のない他人に売り飛ばされるケースはまれ。主な買い手は夫の友人知人や妻の愛人などで、どのタイミングで幾らで競り落とすか、予め取り決めを交わしていました。過去には長年の親友に妻を売った剛の者も。
オークションの司会を務めるのは夫ですが、妻にも一応の拒否権はありました。1824年のマンチェスターでは5シリングで競り落とされた女性が、「この人はちょっと……」と落札者に不満を示し、3シリングと1クォートのビールに値上げされています。

1766年にはサザークの大工が酔った勢いで妻を売ったことを激しく後悔し、「俺にはお前がいなきゃ駄目だ」と再三懇願するもすげなく断られ、失意のどん底で首を吊った事件がニュースになりました。自業自得と言ってしまえばそれまでですが、少々気の毒かもしれません。

女房の首に縄を巻いて!いざ行かんオークションへ

ここからは妻売りの段取りを説明します。まずは新聞に広告を打ち、妻売りの具体的な日時と開催場所を知らせます。夫が職人の場合は所属組合に根回ししたり、自ら街頭で呼び込みを行うこともしばしば。
当日になると夫は妻の首と手に縄、もしくはリボンを巻き、その切れ端を引いて町中を練り歩きました。
お披露目タイムが終わったら賑わいのある辻や市に移動し、ひとしきり客寄せの口上を述べます。「スミスフィールド・バーゲン」のスラングが生み出された英国最大の肉市場、ウェスト・スミスフィールドもまた、妻売りのメッカでした。

じゅうぶんに人が集まったら競売スタート。この時に大事なのが妻のセールスポイントアピールで、「気立てが良い」「働き者」「太り肉で健康」「料理が上手い」「乳搾りのプロ」「床上手」など、思い付く限りの長所を並べ立てます。家畜と同じく目方(体重)で値段が変動することもありました。
競りに掛けられる妻は大抵しおらしくうなだれていましたが、落札者に駄目だししたマンチェスターの女性よろしく、木箱や樽の上から客を逆に値踏みする胆力の持ち主も。世間体を気にする落札者は代理人を立て、あとで商品を貰い受けに来ました。

中には妻子抱き合わせで叩き売られるケースもあったようで、1782年エセックスの教区記録には、「モーゼズ・ステビングの娘アミーが買われた妻に伴われ、頭絡(とうらく)を付けたままやってきた」と記載されています。
値段の相場は2シリング~6ペンス程度。安ければビール1杯、もしくは無料。買い手ないし売り手が農民の場合、牛・馬・鶏・穀物と直接交換されることもありました。

必ずしも値段が重視されなかったのは、公衆の面前で妻を売却した既成事実こそ、夫が一番に欲するものだったからに他なりません。「俺の物じゃないから金輪際責任持ちませんよ、あとはご勝手にどうぞ」、というのが本音でしょうか。離婚手続きに時間と費用を掛けられない・掛けたくない労働者階級にとって、手っ取り早く厄介払いができる上、お金も儲かる妻売りは一挙両得の解決策でした。

暴力亭主から幼な妻を救った、シャンドス公爵のちょっといい話

妻売り関連で有名なのがシャンドス公爵の二番目の妻のエピソード。ある日のこと、小さな村の宿屋に泊まった侯爵は、粗暴な馬丁が若い妻をひどく殴り付けているのを見かね、「そんなにいじめるなら半クラウンで譲ってくれないか」と申し出ます。

金に目が眩んだ馬丁があっさり承諾したので、公爵はボロボロの女性を屋敷に連れ帰り、綺麗なドレスを着せて優れた教育を施しました。すると数年後には見違えるような貴婦人に成長し、馬丁が亡くなるのを待って二人は入籍したそうです。以上は公爵の二番目の妻が臨終の際に一族を集めて語った話で、恩人への深い愛情と尽きせぬ尊敬の念が偲ばれますね。

妻売りの終焉とブラックジョーク

英国の法律が妻売りを禁じたのは1857年、最後の妻売りが行われたのは1913年でした。一方で夫婦喧嘩に腹を立てたイギリス人夫が、近年の新聞に妻売りの広告を出したところ、面白半分の買い手が殺到したのもまた事実。
奥さんが許してくれなかったらどうなっていたか、あんまり想像したくありませんね。

featured image:Thomas Rowlandson (1756–1827) and Augustus Charles Pugin (1762–1832) (after) John Bluck (fl. 1791–1819), Joseph Constantine Stadler (fl. 1780–1812), Thomas Sutherland (1785–1838), J. Hill, and Harraden (aquatint engravers)[1], Public domain, via Wikimedia Commons

面白かった?

平均評価: 0 / 5. 投票数: 0

投票がありませんよ、最初の評価をしてね!

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!

思った事を何でも!ネガティブOK!

コメントする

コメントは日本語で入力してください。(スパム対策)

目次