特攻の全責任を一身に背負った男がいた。
遺書
玉音放送の翌日、昭和20年8月16日、海軍軍令部次長 大西瀧次郎中将が割腹自決を遂げた。
作法通りの割腹で腸が飛び出していたが、介錯を強く拒んで10数時間苦しみ、「これで良い。送り出した部下たちとの約束を果たせた」と絶命した。
遺書が残されていた。
そこには先ず、特攻で戦死した若い部下たちとその遺族に対する深謝があり、続いて生き残った人々に対する願いが綴られていた。
「次に一般青壮年に告ぐ
我が死にして軽挙は利敵行為なるを思ひ
聖旨に副い参り自重忍苦するの誡ともならば幸なり
ー中略ー
諸子は国の宝なり
平時に処し猶ほ克く特攻精神を堅持し
日本民族の福祉と世界人類の和平の為に最善を尽くせよ」
そして
「別紙遺書 青年将兵指導上の一助とならば利用ありたし」
との添え状があった。
特攻の父
大西の異名である。
日本の絶対国防圏の一画、マリアナ諸島が陥落。決戦の場はフィリピンに移った。
海軍第一航空艦隊司令長官だった大西は、既に大損害を被っている航空戦力ではフィリピン防衛は困難と判断し、最初の特攻作戦を下命した。
大西は特攻以外に反撃の方法がないと言い、初の特攻が空母撃沈一隻の戦果をあげると、「それ見たことか。特攻に限る」と言って、盛んに特攻を推奨喧伝したと伝わる。
その後、軍令部次長に補された大西は部内で徹底抗戦を盛んに主張した。
ポツダム宣言受諾御聖断後にも「あと2千万人の特攻でこの戦は勝てる」と公言し、「天皇と雖も時に暗愚の場合なきにしもあらず」と批判さえしたという。
大西の本心
大西が前線司令官として特攻作戦を下命し、中央でも最後まで徹底抗戦一億玉砕を主張したのは事実である。
しかし若人を国の宝とし、彼らの自死を誡め、世界平和を願う遺書の内容と、特攻の父としての言動の間には理解不能な落差がある。
この落差は何なのか。
意外な証言
大西の人間性をよく知る大西の元副官は「特攻の父」の呼び名に疑問を持ち、戦後、その謎を追った。
そして彼は少数ながら大西の本意を示す貴重な証言を得た。
特攻について
入隊時や中国戦線で大西の配下だった一人のベテラン航空兵は、フィリピンで特攻兵として三度大西の部下となった。
赴任した彼にある参謀が大西の本心を吐露した。
曰く
「日本の敗戦を見通した大西司令は本土が戦火で滅びるのを憂慮し、
フィリピン攻防戦で講和の糸口を模索している。
対外的には強烈な痛打により米国を講和へ誘導し、
同時に抗戦意志盛んな国内向けには、特攻という極めて非人道的な作戦に心痛した天皇が、
自らの意志で終戦の詔が発せられることを目的に、敢えてこの異常な作戦を強行している。
長官のこの真意を君にだけには知らせておきたい」
徹底抗戦について
元軍令部総長・豊田副武は東京裁判の被告として、大西の軍令部次長起用は海軍部内主戦派の不満を抑えるためだと証言した。
終戦を目指す鈴木内閣の米内政光海相が大西の密かな真意を理解し、抗戦派を統制し無秩序な暴発を防止するリーダー役として起用したという。
陸軍では抗戦派によるクーデター未遂が起こっており、国家消滅に行き着く本土決戦一億玉砕の危機が現実化していた。
彼の遺書は抗戦派将校たちに開陳され、
「抗戦派急先鋒だったあの大西次長でさえ、天皇陛下に副い参らせた。
君たちも熟孝せよ」
と、彼らの無謀な行動抑止に役立てられた。
つくられた偶像
大西のフィリピン赴任の昭和19年10月以前の4月には、既に体当たり戦闘機や震洋・回天などの特攻兵器開発案が軍令部内で正式提出されていた。
つまり特攻作戦を推進したのは決して大西だけではなく、これに係わった将官は少なくない。
しかし大西の如く死による贖罪を果たした者はまた多くない。
生き残った将官たちの内には罪悪感があったはずで、自己弁護に片寄るのは人の常である。
そんな彼らの証言の積み重ねが、「特攻の父」という偶像をつくり上げたのではないか。
国家の破滅を防ぎたい一心からの、名も命も捨てた大西の言動は、責任転嫁するのに都合が良いネタだった。
結果的に死んだ大西一人が全責任を押し付けられたのだ。
死人に口なしである。
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