一次史料はほぼない?稀代の名軍師と謳われる「竹中重治」

当サイトは「Googleアドセンス」や「アフィリエイトプログラム」に参加しており広告表示を含んでいます。

日本の戦国時代の軍師と言えば誰を思い出すかと問われた場合、多くの方が思い起こすのは現在であれば2014年に岡田准一主演でNHKの大河ドラマにもなった「軍師官兵衛」から、黒田官兵衛ではないだろうか。
NHKの大河ドラマと言えばその「軍師官兵衛」の7年前の2007年にも、甲斐の武田信玄に仕えたとされる軍師・山本勘助を主役に置いた「風林火山」を放映しており、どこか最近は軍師にフォーカスした感もあった。
但しここの2作品で主役を務めた黒田官兵衛と山本勘助を比較した場合、後者は上杉家との戦で落命する上、仕えた武田家も後に織田家に滅ぼされ、山本勘助自体が史実の上で実在すら危ぶまれていた時期も長かった。

これに比して黒田官兵衛は、豊臣秀吉に天下を取らせた重要な家臣の一人と目されており、豊臣家の滅亡後も徳川家に臣従して黒田藩を明治まで存続させており、実在自体には疑いの余地は無い。
豊臣秀吉に仕えた軍師としては、この黒田官兵衛と「二兵衛」若しくは「両兵衛」と後年並び称された人物に竹中重治があり、初期の豊臣秀吉の織田家内での躍進を支えた稀代の名軍師との評価も多い。

竹中重治は伝承によれば、見た目については瘦身で女性のように柔和な佇まいであったとも言われており、この印象が今日の創作物では最大限に着目され、美形キャラの代表格ともなっている。
今回はそんな竹中重治について、早逝であった為、短い生涯を伝えられている事績と共に振り返って見たいと思う。

目次

斎藤家家臣時代の竹中重治

竹中半兵衛として高名な彼だが重治は通称であり、本名は竹中重虎、後に重治に改名したとされており、1544年に当時の美濃を治めていた斎藤家の家臣・大野郡大御堂城主の竹中重元の子として生を受けたと伝えられている。
因みに生年で比較すると織田信長が1534年、豊臣秀吉が1537年とされているので、竹中重治は前者より10歳下、後者より7歳下にあたり、黒田官兵衛は同1546年のため2歳上と言うほぼ同世代に位置する。

竹中重治の初陣は12歳の時の1556年とされており、これは仕えていた斎藤家の初代当主の道山とその嫡男であった義龍との内紛で、前者に味方した長良川の戦いであり、居城の大御堂城に籠城し義龍軍を退けたと言う。
竹中家はその後の1559年に菩提山城を築城、父・重元とともに竹中重治もここを居城としたが、翌1560年に竹中重治は家督を相続、自身が同城主となって斎藤道山を下た義龍に仕える事となった。
斎藤道山とは娘婿であり一応の同盟的な関係にあった織田信長は、義龍が美濃国主となった事でその攻略に注力するようになり、義龍が1561年に病死、跡をその庶子であった龍興が継ぐと劣勢が鮮明となった。

それでも竹中重治は斎藤家の家臣の一員として織田家の侵攻と対峙し、1563年の戦いでもこれを退ける働きを見せたが、龍興はやがて竹中重治や稲葉良通・安藤守就・氏家直元らの功のあった忠臣を疎んじるようになる。
こしうた龍興からの不当な扱いに業を煮やした竹中重治は、1564年2月に龍興の居城であった稲葉山城(後の岐阜城)を僅かな手勢で急襲、制圧し同年7月末位までその状態を維持したと言われている。
その後竹中重治らは龍興勢の逆襲で稲葉山城を奪還されたとされるが、本人はその後は龍興を見限り隠棲したと言われており、1567年に遂に織田信長が稲葉山城を攻略すると、斎藤家を辞して浪人となったと伝えられている。

美濃を制した織田信長は、その過程で自軍を苦しめ、更に稲葉山城を僅かな手勢で占領した竹中重治の手腕を評価し、自らの配下に加えるべく豊臣秀吉(当時は木下秀吉)をその使者として遣わしたとされる。
こうして豊臣秀吉と邂逅した竹中重治は、信長の直臣となる事は拒否したものの、秀吉の才覚を実感し、その配下となる事を了承、信長からすれば陪臣として織田家に仕える道を選んだとされる。
しかし竹中重治の稲葉山城占拠や、秀吉との邂逅とその後の仕官の在り方についても、歴史的な一次史料では確認はされていない事績であり、非凡な才能を有していた事は事実だろが、後世の脚色と見る向きが大勢を占めている。

織田信長・豊臣秀吉に仕えた後の竹中重治

織田信長の直臣となったのか豊臣秀吉を介して陪臣となったのかには諸説あるものの、いずれにせよ竹中重治は織田家に仕える武将となり、同家の美濃攻略以後の勢力の拡大に残りの半生を捧げた事は間違いない。
織田家での竹中重治は先ず、1568年に近江の六角家との戦いで豊臣秀吉の麾下で本城の観音寺城に先んじて支城の箕作城攻略に加わりその落城に貢献、これは夜襲による火責めであったと伝えられている。

この箕作城の落城によって同じく六角家の支城であった和田山城も兵の逃亡により陥落、この状況から六角家は本城の観音寺城を放棄、六角家の配下の諸将も織田家に下り、労せず織田信長は足利義明を奉じて上洛、室町幕府の第15代将軍に据えた。
それから2年後の1570年には浅井・朝倉家と織田・徳川家の間で姉川の戦いが生起するが、これに先立ち竹中重治はかつて斎藤家を辞した後、一時的に浅井家の食客となっていた時の人脈を活用し調略を行ったとされる。
竹中重治はこの時に浅井家の長亭軒城及び長比城の2城を調略する事に成功、本戦の姉川の戦いにおいても同じ斎藤家から織田家に仕えるようになっていた安藤守就の元で従軍したと言う。

姉川の戦いに勝利した織田信長は、浅井家の支城であった横山城も陥落させ、同城に豊臣秀吉を城番として置いたがここに竹中重治も加えられ、以後は豊臣秀吉が中国攻めの総大将となりそれに従軍した。
竹中重治は1578年5月に宇喜多家の支城であった備前八幡山城を得意の調略によって落とし、最終的には宇喜多家そのものも調略によって織田家の軍門に下らせ、織田信長から豊臣秀吉ともども報奨を与えられ称えられた。

竹中重治と黒田官兵衛の逸話

織田家が長篠の戦いで武田家を破った1575年、播磨の戦国大名・小寺家に家老として仕えていた黒田官兵衛は、かねてから織田信長の台頭を予期していた事から、主君である小寺政職に織田家に臣従する道を説いた。
この頃の中国地方の勢力は中央で織田家が勢力を増しつつある事は認識してはいたものの、自らの背後に控える毛利家に与する意見が支配的であったが、黒田官兵衛は的確に時世を読み、織田家に付く事を主導した。

こうして黒田官兵衛は豊臣秀吉を通じて織田信長に臣従の意を表し、主君の小寺政職を始め赤松広秀、別所長治らを上洛させ織田家に与する事を約束させる事に成功、織田家中の竹中重治とも知己を得たと思われる。
但し中国地方の支配権を巡ってはその後も二転三転があり、一度は黒田官兵衛の言により織田家に与した別所長治らが態度を変えて毛利家に寝返るなど、一直線に織田家の勢力が浸透するには至らなかった。
そうした不安定な状況が生じる中で、1578年には織田家の家臣として摂津の有岡城を治めていた荒木村重が謀反を起こして籠城、翻意を促すために黒田官兵衛は単身で説得の為に同城に乗り込むが聞き入れられず幽閉の憂き目に遭う。

有岡城から戻らぬ黒田官兵衛に対して織田信長は、荒木村重に同調したものと見做し、人質としていた黒田官兵衛の嫡子・松寿丸(後の黒田長政)を殺すように豊臣秀吉に命令を下したと言われている。
しかし秀吉の配下で黒田官兵衛とも誼を通していた竹中重治は、かの者が裏切る筈はないと主張し、織田信長には偽首を差し出して自らの領地に松寿丸を匿い、その命を守ったと伝えられている。
この逸話が事実であるか否かは判然とはしていないが、おそらく後年の創作であるとする説が有力で、竹中重治の洞察力と思慮深さを示すものとして数多くの創作の中で必ずと言って良い程描かれている。
翌年の1579年に織田家の前に落城した有岡城から黒田官兵衛は救出されるが、先の松寿丸の一件を知り、当然の事ながら竹中重治の行いに深く感謝し、その証に家紋を貰い受けたと伝えられている。

竹中重治の最期

竹中重治は豊臣秀吉の元で中国攻め従軍、1579年4月に播磨の別所家の三木城を包囲した戦いの最中に陣中にて倒れ、36歳と言う若さでそのまま他界したとされている。
その死因は肺を患っていた事と伝えられているが、一説には他界する前年の1578年にはかなり重い病状であった為、京にて闘病生活を送っていたが死期を悟り、最期は戦場で迎えたいと病を押して従軍したと言う。

豊臣秀吉の伝記で江戸時代に記された「太閤記」や、同じく江戸時代の中期以後にきされた「常山紀談」によれば、竹中重治は病弱で痩身、容貌は女性のようだったと記されており、それが元で斎藤家時代には嘲笑の対象にもなったとされる。しかしその描写は今日的にはいかにも繊細で儚い人物象に収束され、漫画やアニメなどでは無類の美形キャラクターとして、早逝だった事も手伝って人気を博しているように思える。

個人的にはかなり古い作品だが、服部半蔵を主役とする小池一夫氏原作の劇画「半蔵の門」で、竹中重治と対面した服部半蔵がその印象を伝え聞く三国志の名軍師・諸葛亮孔明のようだと評していた事が印象に残っている。

featured image:不明。, Public domain, via Wikimedia Commons

面白かった?

平均評価: 3 / 5. 投票数: 1

投票がありませんよ、最初の評価をしてね!

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!

思った事を何でも!ネガティブOK!

コメントする

コメントは日本語で入力してください。(スパム対策)

目次