太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)2月から繰り広げられた硫黄島での攻防戦
ここでオリンピックのメダリストが率いる戦車隊が戦っていました。そのメダリストと戦車隊について紹介します。
硫黄島の戦い
1945年(昭和20年)2月19日に米軍が小笠原諸島の硫黄島に上陸します。
米軍は日本本土を空襲するB-29爆撃機の基地があるマリアナ諸島と日本列島の間に拠点を必要としていた。その拠点として米軍は硫黄島を攻略する。
硫黄島が占領できればP-51戦闘機を東京へ出撃させる事も可能となる。日本軍もそうした危機が迫っているのを知っており、硫黄島の防備を固めます。
その防衛戦力の一部としてロサンゼルス五輪のメダリストである西竹一中佐が居ました。
金メダリスト西竹一
西竹一は東京の麻布で1902年(明治35年)に生まれます。父親は外務大臣と枢密院顧問官を務めていた男爵の西徳二郎で竹一は男爵家の息子であった。
西は男爵家を継ぎ、陸軍軍人を志し騎兵将校となります。
騎兵将校の西は荒馬での乗りこなし、馬で柵や石垣に自動車を飛び越えさせる挑戦を繰り返し障害馬術の腕を磨いた。その腕を認められ1932年(昭和7年)のロサンゼルスオリンピックの馬術競技の選手として西は出場します。
西はイタリアで出会い購入した愛馬ウラヌスと共に馬術障害飛越に挑み、金メダルを獲得します。
オリンピックでの日本馬術は前回のストックホルムから出場し20位の成績であった。西の金メダルは大きな飛躍になった。世界も西を「バロン(男爵)西」と称賛しました。
戦車隊長としての最期
1936年(昭和11年)のベルリンオリンピックではメダルに届かずに終わり、騎兵部隊へ戻ります。時代は騎兵部隊を戦車部隊に変え、西は戦車第26連隊の連隊長に就任します。
西の戦車連隊は満州から硫黄島へ移動、途上で輸送船を敵潜水艦に沈められ戦車も沈み戦車無しで硫黄島に到着する。
戦車連隊は西の要請で戦車は補充されて23両を装備した。
しかし日本軍の九五式中戦車と九七式中戦車では米軍のM4中戦車とまともに戦って勝てない事を西は知っていた。西は来る実戦に向けて戦車を陣地に隠れるように置いた。戦車を砲台のように戦わせた。
硫黄島守備隊が地下陣地での防衛戦を徹底した事から粘り強く戦い続けたが、補給も援軍も無い戦いでは戦力を日々失うばかりであった。
西は戦車を全て失いながらも残る将兵で戦い続け3月の下旬に戦死する。その最期は定かでは無いものの、世界が称賛した金メダリストは戦車を失いながらも最後まで戦い続けたのです。42歳で亡くなり戦死後大佐に昇進しました。
金メダルの栄光を共にしたウラヌスも東京の陸軍獣医学校で3月末に亡くなった。
featured image:Takeichi Nishi, Public domain, via Wikimedia Commons


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