歴史は大なり小なり、その時代を生きた人間の行為によってよかれ悪しかれ形作られて行くものである為、殊にある分野で特筆すべき人物を〇〇四代△△といったような括りで紹介するフレーズをよく目にする。
日本の歴史上で高い人気を誇る戦国時代であれば、例えば一時は戦国最強とも謳われた武田信玄・武田勝頼を支えた馬場信春・内藤昌豊・山県昌景・高坂昌信は武田四名臣と称され、今も語り継がれているのは有名だろう。
激動の幕末期に目を移せば、そこには越前藩の松平春嶽・土佐藩の山内容堂、宇和藩の伊達宗城、島津藩の島津久光が幕末の四賢侯と称され、その後の日本の政治体制の変革に大きな功績があったと称えられている。
そんな中、彼ら幕末の四賢侯を表の高い地位にあった指導者的な人物とするなら、その対極とも言うべき末端で実際に刀を振るった存在として、幕末の四代人斬りと呼ばれた言わば裏方の人物達もいた。
彼ら幕末の四代人斬りとは、薩摩の田中新兵衛及び中村半次郎、肥後の河上彦斎、土佐の岡田以蔵の事を指しているが、当時からそのような呼称だった訳ではなく、後年の多くの書籍等でその異名が定着したものと見做されている。
今回はそんな幕末の四代人斬りと呼ばれた、薩摩の田中新兵衛及び中村半次郎、肥後の河上彦斎、土佐の岡田以蔵の4人について、その事績と伝えられる人となりについて紹介して見たいと思う。
幕末の四代人斬り1 薩摩の田中新兵衛
先ず一人目の薩摩の田中新兵衛は、1832年に薩摩の前ノ浜の船頭若しくは薬屋という商人の子として生を受け、武士の家系でないながらも薩摩藩で主流だった示現流の慣れを汲む剣術の鍛錬を幼少期から積んだとされる。
何時頃に田中新兵衛が薩摩藩に仕える士分となったかは定かではないが、幕末期の1862年5月から6月あたりに上京し、先に上京していた薩摩藩士で西郷隆盛や大久保利通と近しい関係だった海江田信義らの元に身を置いたと目されている。
海江田信義は水戸藩士として尊王思想の大家であった藤田東湖に師事した人物である為、田中新兵衛もその影響で強烈な尊王論者となったと目され、当時の江戸幕府の尊王攘夷派の弾圧に反感を募られたと思われる。
そんな中で江戸幕府の大老として安政の大獄を行い、尊王攘夷派の弾圧を敢行した井伊直弼、その腹心の長野主善の配下として働いた島田左近が京にいた為、田中新兵衛は仲間6名とこれを1862年7月に討ち取り名を挙げた。
この功績により翌8月に田中新兵衛は、同じく尊王攘夷派として土佐藩で権勢を高めていた武市半平太と親交を深め義兄弟となり、武市半平太の配下で対峙する人物の暗殺を担当していた岡田以蔵らと行動を共にするようになる。
こうして岡田以蔵と田中新兵衛らは、同年10月に本間精一郎(安政の大獄で投獄もされた尊王論者)、翌11月には江州石部事件と呼ばれる渡辺金三郎ら京都町奉行所の役人複数の暗殺を実行したとされる。
そして翌1863年7月、公家の姉小路公知が暗殺される朔平門外の変が発生、その現場に田中新兵衛の愛刀であった奥和泉守忠重等が残されていた事から、実行者の一人として江戸幕府側に捕縛された。
田中新兵衛はこのとき、江戸幕府で京都町奉行を務めていた永井主水正による取り調べの最中、隙を見て脇差を使用して自害、本当に姉小路公知の暗殺の実行犯であったか否かは不明とされた。
しかし近年の研究では姉小路公知の暗殺に田中新兵衛が加わっていたとする説が有力となっており、彼の暗殺の中ではもっとも社会的な地位の高い被害者だったと考えられている。
幕末の四代人斬り2 薩摩の中村半次郎
二人目の薩摩の中村半次郎は、鹿児島の城下で下級武士であった中村与右衛門の第三子として1838年12月に生を受けたが、自身が10歳の時にその父・中村与右衛門が薩摩藩から流刑に処された。
その後も中村半次郎が18歳の折には長兄を病気で失い、自身が農業に従事するなどして何とか家を支え、経済的にも非常に困窮した生活を送ったと考えれている。
そんな中村半次郎の転機となったと思われるのが、1862年3月に当時の薩摩藩で実権を握っていた島津久光の上洛で、中村半次郎は京で皇族の久邇宮朝彦親王の守衛を務める役を与えられた。
この京において中村半次郎は薩摩藩以外尊王の志士らとも親交を深め倒幕を志すようになり、並行して薩摩藩内では家老の小松帯刀に目をかけられ、また西郷隆盛からの信頼を得る存在となったとされる。
当時はまだ薩摩藩とは犬猿の仲であった長州藩に対し、西郷隆盛は中村半次郎がその藩士らと深い繋がりを得ていた事を評価したと思われ、1866年頃には薩摩藩邸に庇護されていた坂本龍馬を頻繁に見舞ったとも伝えられている。
そして1868年、戊辰戦争が勃発すると中村半次郎は薩摩藩の城下一番小隊の兵としてこれに参戦、戦功により小隊の小頭見習いに昇格、更に西郷隆盛が官軍を率いて江戸に向かう際には城下一番小隊の隊長を任じられる。
同年8月に中村半次郎は官軍直属の軍監に就き、鹿児島と宇都宮から成る2つ藩兵を率い日光方面に向かい会津藩の攻略に従事、同年9月22日の会津藩降伏を受け、会津若松城の受け取り役を全うした。
戊辰戦争が官軍側の勝利で終結した後に中村半次郎は桐野利秋に名を改めたが、1869年には鹿児島常備隊の第一大隊の隊長に就き、1871年には明治新政府で兵部省へ出仕し同年には陸軍少将となり、翌1872年には鎮西鎮台の司令長官を務めた。
更に1873年には桐野利秋は鎮西鎮台の司令長官と陸軍裁判所所長を兼務するに至ったが、同年10月に敬愛する西郷隆盛が明治六年の政変で政府を去ると、自身も陸軍の職を辞して西郷に倣って鹿児島へと戻る。
そして1877年、明治政府が西郷隆盛の暗殺を企図していた事を知ると、桐野利秋は西郷隆盛を旗頭に据えて西南戦争を起こすも敢え無く敗北、同年9月24日に西郷隆盛の自刃を見届けた後、戦死して生涯を終えた。
これまで述べてきたように幕末に中村半次郎を名乗っていた時期を含め、彼が実際に暗殺を行った事績はほぼ記録としては残されておらず、幕末の四代人斬りの一人と言うのは後世の脚色の感が強いと思われる。
幕末の四代人斬り3 肥後の河上彦斎
三人目の肥後の河上彦斎は、肥後細川藩の熊本城下で下級武士の小森森貞助の次男として1834年12月に生を受け、その後に河上源兵衛の養子に出され、そこで名を彦斎と改めたとされている。
河上彦斎は先ず16歳で肥後細川藩の茶坊主となり、やがて国老附坊主まで昇進、そこで儒学や国学と同時に同藩士で尊王攘夷思想を持つ宮部鼎蔵に兵法を学んだ事で、自身もその熱烈な信奉者となった。
そして1861年以後に、庄内藩出身の武士で討幕運動を広げる為に尊王攘夷思想を遊説に九州を訪れていた清河八郎らと邂逅、その思想に共鳴し僧籍を抜けて1863年には肥後細川藩の親兵に選抜され、師である宮部鼎蔵らと並ぶ地位を得る。
同年9月に河上彦斎は、八月十八日の政変によって京を離れ長州に匿われた公家の三条実美の警護役に付き、そこで長州藩の尊王攘夷派の人物達と交流し、知己を得たと考えられている。
その翌年の1864年6月、河上彦斎の兵法の師であった宮部鼎蔵が京の旅籠である池田屋にて、尊王攘夷派の長州や土佐藩士らの会合中だったところを新選組に襲撃され、落命する所謂池田屋事件が発生した。
河上彦斎はこの報に触れ、師の仇討ちを期して翌7月に上洛したが、当時の江戸幕府が推進していた公武合体政策の賛同者で且つ開国を唱えていた松代藩士の佐久間象山と遭遇、杉浦虎太郎と2人で討ち取る事に成功する。
その後、河上彦斎は長州の庇護を受けたと思われ、同月に生起した禁門の変にも長州軍の一員となって参戦、これに敗れ京を追われた長州軍と行動を共にし、続く江戸幕府による第二次長州征伐でも長州兵として武功を挙げ、奇兵隊の総帥にまで推された。
1867年に河上彦斎は肥後細川藩へと戻り倒幕に参加するよう働きかけたが、同藩は未だ幕府支持派が主導していた為、翌1868年2月まで投獄され、その間に薩長を中心とする明治新政府が倒幕を果たした。
その為、ようやく獄を出された河上彦斎は明治新政府で参与を命じられた藩主の細川護久の弟・長岡護美の従者として上京する事となり、長岡護美の勧めで高田源兵衛と名を改めた。
但し江戸幕府を倒した明治新政府ではあったが、いざ政権を手にすると江戸幕府と同様に開国を進める方針を執った為、従来迄と変わらぬ尊王攘夷思想で開国に反対する河上彦斎は居場所を失う。
1869年になると肥後細川藩は、飛地として領していた現在の大分県の鶴崎に河上彦斎を左遷させた後、程なくして藩の役職から外して熊本に戻すも、大村益次郎暗殺事件への間接的な関与、二卿事件及び広沢真臣暗殺事件へ関与の疑いで投獄、東京へ移送した。
結局、河上彦斎は1872年1月にこれらの嫌疑にて斬首に処されてその生涯を終えた。何れの嫌疑に関しても河上彦斎が関与した確実な証拠はなかったと言われており、明治新政府の方針に逆らう側への見せしめ的な意味合いが強かったと考えられている。
幕末の四代人斬り4 土佐の岡田以蔵
四人目の土佐の岡田以蔵は、土佐藩の香美郡岩村の下級武士(郷士)の岡田義平の長男として1838年2月に生を受け、1848年以降に高知城下の七軒町に転居し、後に土佐勤皇党の領袖となる武市半平太と邂逅する。
岡田以蔵は武市半平太らと共に土佐藩一の剣豪と謳われた、小野派一刀流を修めた麻田直養の道場にて剣術を習い、1856年9月からの1年、これも武市半平太と共に江戸の名門・鏡心明智流の桃井春蔵の士学館道場で学んだ。
以後も岡田以蔵と武市半平太は中国地方や九州地方で剣術修行を重ね、武市半平太と離れた後も一人で豊後の岡藩にて直指流剣術を学ぶなど、世に知られた剣術を若くして複数を修めている。
そして1861年8月、武市半平太が起こした土佐勤王党の一員に岡田以蔵も加わり、翌1862年6月には共に土佐藩の参勤交代の衛士を命じられ、その役目にて初めて上洛を果たした。
武市半平太の土佐勤皇党は土佐藩内で尊王攘夷を掲げ、下級武士の集まりながら表で存在感を高める一方、裏では1862年5月に那須信吾らの党員4名に命じ、藩の参政を務めていた吉田東洋を暗殺する。
こうした動きに準じ武市半平太の指示を受け、岡田以蔵も同年8月には藩の下目付の井上佐市郎の暗殺を他の土佐勤皇党員らと行った事を皮切りに、京でも長州や薩摩の尊王攘夷派の志士らと共に天誅を称する暗殺を次々と実行した。
京での岡田以蔵は先ず前述した薩摩の田中新兵衛らと1862年10月に本間精一郎、翌11月に江州石部事件で渡辺金三郎ら京都町奉行所の役人複数、1863年1月には長野主膳の愛人の子である多田帯刀を暗殺したとされている。
その後、岡田以蔵は土佐藩を脱藩した為、土佐勤皇党との関係も薄れ、江戸に上って長州藩の高杉晋作の元に身を寄せた。岡田以蔵は旧知の坂本龍馬の斡旋で一時は勝海舟の護衛を行うも、以後は姿をくらました。
岡田以蔵は1864年2月に京で江戸幕府の役人に民家への謂わば強盗の容疑で捕縛された後、無宿者として京から追放されたが、すぐに土佐藩の役人に捕縛され、土佐へと身柄を移された。
当時の土佐藩は土佐勤皇党の弾圧を進めており、武市半平太を始めとするその多くを投獄しており、吉田東洋を始め京での多数の暗殺に関与したと思しき岡田以蔵も拷問にかけられ、1865年5月に処刑された。
幕末の四代人斬りの個人的な評価
これまで見てきたように幕末の四代人斬りと呼ばれた、薩摩の田中新兵衛及び中村半次郎、肥後の河上彦斎、土佐の岡田以蔵の4人は、中村半次郎を除けば幕末の暗殺の代償として非業の死を遂げたように感じられる。
彼らの中で最も幕末の人斬りの異名に相応な数の暗殺を行ったのは、数的に見れば個人的には岡田以蔵、田中新兵衛、河上彦斎、中村半次郎の順になるのではないかと、現時点では思う。
但しその暗殺の背景や思想を鑑みれば、数の多い岡田以蔵や田中新兵衛には、何か確固たる思想性があったと言う訳ではなく、剣術の腕前から重宝されたと言う感じがしないでもない。
最も暗殺対象が大物であったと言う観点からすれば、佐久間象山を討った河上彦斎がその後の歴史にも大きな影響を与えたとも思え、人気漫画のるろうに剣心の主人公のキャラのモチーフとされた点も頷ける。
中村半次郎はこれら3人に比して暗殺者と言う括りとはかなり異なる印象で、寧ろ師と仰ぐ西郷隆盛と共にその最期まで戦い続けた武人と言うのが相応しい気もしてしまう。
※画像はイメージです。


思った事を何でも!ネガティブOK!