太平洋戦争末期の1944年に起きたペリリュー島の戦い。
アメリカ軍にとっては想定外の長い戦いとなり想定以上の犠牲を強いられた戦いにもなったのです。
ペリリュー島の価値
ペリリュー島は現在のパラオ共和国にあるパラオ諸島南西部にある島です。13平方キロメートルの小さな島であるペリリュー島は太平洋戦争の激戦地になったのは何故か?
ペリリュー島を含むパラオ諸島は800kmほど西にフィリピン諸島がある。アメリカ軍は予定しているフィリピン奪還作戦の際にパラオ諸島から日本軍の航空部隊がアメリカ軍艦隊や輸送船団を襲うのではないかと懸念した。
またフィリピンのミンダナオ島なら800kmや900km離れたパラオ諸島からならアメリカ軍の爆撃機B-24の攻撃圏内であり基地にする有効な位置にあった。こうした脅威の排除と新たな前線基地獲得と言う目的からアメリカ軍はペリリュー攻略戦を決定する。
日本軍の防衛計画
ペリリュー島は日本軍の絶対国防圏の最前線にある島でしたが、重要な地域はマリアナ諸島であり、ペリリューを含むパラオ諸島はマリアナ防衛の後方支援を担う地域とされ飛行場の整備が行われた。
ペリリュー島も飛行場が建設されパラオ諸島の重要性が高まり第14師団が守備隊として送り込まれた。ペリリュー島には第14師団から歩兵第2連隊と歩兵第15連隊第3大隊に戦車隊などが派遣された。
守備隊長には歩兵第2連隊の連隊長である中川州男大佐が務め、ペリリューの防衛計画を敵を引き付けた時に攻撃する方針に定めた。
激闘の果てに
1944年(昭和19年)9月15日にアメリカ軍はペリリュー島への上陸作戦を開始、上陸した第1海兵師団を乗せた舟艇や水陸両用車が海岸へ殺到し陣地の目前まで迫った段階で中川大佐は射撃開始を命じた。日本軍の銃砲火に海兵隊は混乱し犠牲を出しつつも海岸に上陸し内陸へと進撃を始める。
中川大佐は九五式軽戦車の戦車隊を投入しての反撃を実行したが米軍のM4中戦車やバズーカ砲により撃破され反撃は失敗した。
海岸の防衛と反撃に失敗し、白兵戦でも守った飛行場からも撤収した日本軍は島内の洞窟での持久戦に切り替え抵抗を続けた。抵抗は激しく第1海兵師団はペリリュー島で6000人以上の死傷者が出る太平洋戦争で最も多くの損害を被る事になった。
第14師団は200人をペリリュー島へ逆上陸させて援軍として送り込んだが戦局は変わらず11月24日に中川大佐は自決し「サクラサクラ」の決別電文を第14師団へ送った。3日後には残る将兵が玉砕しペリリューは陥落した。それでも日本兵34人が米軍の食糧を奪いながら洞窟で身を潜め終戦まで生き延びた。
featured image:Signal Corps Archive from United States, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で


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