日本神話において、三貴神でもあり主役級の神でありながら、その立ち振る舞いはまるで悪者といえる、荒々しい性格と破天荒な行動で最も異彩を放つ存在。
それがスサノオノミコトである。
彼はときに「悪神」とまで呼ばれることもあるが、後半になると英雄的な一面も持ち合わせてくる。
果たしてスサノオは悪神なのか、善神なのか。その二面性に迫って考察してみたい。
スサノオの荒ぶる側面
スサノオの悪名は、古事記や日本書紀において、登場した後に高天原での乱暴な行動に見える。
彼は姉である天照大神(アマテラス)のもとへ挨拶に訪れた際、その荒ぶる性格により警戒されていた。
その誤解を解くべく、強引に誓約を提案し、なお、自らの持ち物から女神が生まれたという理由で、やや一方的に自分の誤解は晴れたとしている。
その後、誤解も解け歓迎されながらも天界で過ごすわけだが、あらゆる狼藉を働き、田畑を荒らし、神殿を破壊し、さらには馬を投げつけたりアマテラスが寵愛している機織りの乙女を死なせるという重大な事件まで引き起こしたのだった。
その結果、アマテラスは天岩戸に隠れてしまい、世界は闇に包まれた。
やはり悪神だったのかスサノオ
高天原での狼藉やアマテラスへの行為、これだけを見てもスサノオは確かに「悪神」と断じたくなる。
その後、英雄談としても語られる神話の一コマである、八岐大蛇伝説の際には、姫を助けるためとはいえ、ヤマタノオロチを酔わせ、昏睡の状態で切り殺すという狡い残忍さと、尻尾から草薙の剣を見つけ奪っている。
さらに、大国主が、八十神たちに狙われて、なんども視線を超えて根の国へと逃げスサノオと対面するが、その大国主に対する試練の数々の恐ろしくも禍々しい、あわよくば殺してしまおうとするやり方にも残酷で冷淡さが見受けられる。
アマテラスのような、太陽神であり光輝く、すべてを統括する英雄的な神とは違鵜といえる。
やはり、本質的な性格が、荒々しくて破壊的といった悪のエネルギーが大きいといえる神なのだ。
スサノオに善はあるのか
スサノオに性格的な悪を見出したわけだが、善はあるのだろうか。
高天原を追放され、野に下ったスサノオだが、しかし、彼の物語はそこでは終わらない。
高天原を追放された後、地上に降り立ったスサノオは出雲の地で、娘を次々に生贄として奪われていた老夫婦と出会い、恐ろしい怪物・八岐大蛇と対峙したのだ。
知恵と力を用いて大蛇を見事に討伐し、その尾からは、のちに三種の神器の一つとされる『草薙剣(くさなぎのつるぎ)』を取り出すわけだが、この英雄的な行動には、スサノオに民を守る『善神』としての側面を見せているといえる。
その後も、奪い取った草薙の剣を、アマテラスに献上するといった、心を入れ替えたような振る舞いで善行をさらっとしている。
それならば、スサノオは善神ともいえるものなのか?
一般的な神話の外の日本の環境下でも、スサノオは人々に親しまれているといえるものが見える。
京都の『八坂神社』をはじめとする多くの神社で、疫病退散や厄除けの神として信仰されてきた。
とくに出雲地方では、スサノオは祖神として崇められ、その人格は「荒ぶる力を鎮め、世を治める神」として理解されている。
全国的な神社にも、スサノオを鎮座する神社が多いのはなぜだろうか。
それは単に、スサノオのご神徳が強く協力的な背景があったというものではなく、古来からスサノオが愛され身近に感じられる存在だったからなのではないだろうか。
善と悪両方を持ち合わせる神
このように、スサノオは単なる「善と悪」といった二極論の二項対立で語れる存在ではないといえよう。
彼は人間臭さがモロに出てしまっている神だ。
感情に忠実で時に暴走し、相手を傷つけ自分もその罰を受ける。
しかし、最後には人々を守るために力を振るい、英雄的立場となり、大国主を育てた。
これにいえるのは、人間の中にも存在しうる混沌と秩序であり、破壊と再生の象徴とも言える。
そして、何にも、彼は愛妻・櫛稲田姫と結婚し出雲を拠点とする場所を見つけ、そこで情緒ある歴史で一番古い和歌を詠んだという文化的な側面を持つ。
『八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣つくる その八重垣を』
現在に至るまで残った歌は、愛する妻への想いが深く感じられるものである。
神話は、単なる昔話ではない
スサノオのように、自己中心的にふるまい、失敗や怒りを抱えながらも、それを超えて他者を守り善行を行おうとする姿は、現代を生きる私たちにも通じるものがあると筆者は感じる。
スサノオは、悪神でも善神でもなく、どちらも持ち合わせた、人間味あふれる神。その二面性こそが、彼を語るにふさわしい言葉で、その人に愛され信仰されたという影響力の根本なのだろうか。


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