赤ん坊を叩き付け子供に手術強制?ポル・ポト政権の恐るべき実態

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皆さんはカンボジアのポル・ポト政権が巻き起こした惨劇をご存じですか?今から三十年近く前、カンボジアの豪農の子として生まれた彼は、フランス留学を機に原始共産主義に傾倒し、祖国に多大な爪痕を遺しました。

今回は最悪の独裁者と呼ばれるポル・ポトの生い立ちと、カンボジアの負の遺産に迫ってみたいと思います。

目次

ポル・ポトの生い立ち~フランス留学の挫折がきっかけで共産主義者に

ポル・ポト(本名サロット・サル)は1925年5月19日、フランス領インドシナ(現カンボジア)の農村に9人兄弟の8番目として生まれました。父のペン・サロットは地元で有名な豪農で、ポル・ポトは何不自由ない幼少期を過ごします。
子供時代のポル・ポトは評判の秀才でした。8歳でカトリックの私立校に入り、14歳の時にノロドム・シハヌーク高校に進学。1年後に奨学金を得てパリに留学するも現地の生活に馴染めず孤立し、追い討ちをかけるように連続で試験に落ちて、人生初の挫折を経験します。

物心付いた頃から周囲に秀才と持て囃され、エリートを自認していた青年にとって、自分が落ちこぼれた現実は断じて受け入れ難いものでした。故に劣等感を拗らせ、知識人に強い恨みを抱くようになります。
失意のどん底に突き落とされたポル・ポトを救ったのは、自分と同じカンボジア出身の留学生たちで結成された、原始共産主義のサークル活動でした。原始共産主義とは貨幣経済や近代文明を否定し、狩猟採集社会を理想に掲げる左翼思想です。

ここでポル・ポトはのちにカンボジア共産党(クメール・ルージュ)を起ち上げる同志と出会い、坂道を転げ落ちるように道を外していくのでした。

全裸の母親の目の前で頭を叩き潰された赤ん坊たち

フランスから帰国したポル・ポトは祖国の農村を見て回り、自給自足を旨とする、山岳先住民族の暮らしに感銘を受けました。その後仲間たちとフランス共産党を作って知識人を弾圧し、都会から田舎へ人々を強制移住させます。
学校・病院・工場・銀行は閉鎖され、国民たちは老若男女問わず重労働を課されました。障害者や病人、妊婦であっても例外は一切認めません。

言わずもがな財産は没収、車も取り上げられた為、徒歩で数百キロを移動することになります。長距離移動に耐え切れず、行き倒れた者は捨て置かれました。
さらには家族を解体し、大人は大人だけ、子供は子供だけで隔離して集団生活を送らせます。
ポル・ポト政権の支配下では国民の義務としてスパイの通報が奨励され、隣人同士が密告し合いました。反抗分子と疑われたら最後、無実の人間だろうと関係ありません。酷い場合は一家揃って強制収容所に送られ、残虐な拷問を受ける羽目になりました。

キリング・フィールドはポル・ポト政権時代に多くの知識人や僧侶が殺された広場。ここに一本の木が生えています。その名もキリング・ツリー……ポル・ポトの部下たちは生まれたての赤ん坊を逆さ吊りにし、この木に叩き付けて殺したのです。
赤ん坊の殺害は全裸に剥かれた母親の目の前で行われました。母親たちは我が子の死を見届けたあとで殺されます。銃殺しなかった理由は単純に銃弾がもったいないから。木の枝に括られた大量のミサンガは、後世の人々が名もなき母子の供養の為に捧げたものだそうです。

キリング・フィールドは処刑場と墓場を兼ねています。広場には今も沢山の死体が埋まっており、腐敗ガスの漏出でデコボコに隆起した地面が、虐殺の痕跡を現代に伝えていました。

トゥールスレン強制収容所で繰り返された凄惨な拷問

カンボジアの知識人階層はポル・ポトの憎悪の対象でした。彼は気取り屋の教師や医者を憎み、遂には眼鏡を掛けている、本を持っている、時計が読めるだけで敵と決め付け、強制収容所に送り込むようになります。

それが悪名高いトゥールスレン収容所。元は高校の校舎でしたが、ポル・ポト時代に政治犯収容所に改造され、S21の暗号名で呼ばれるようになりました。S21はセキュリティーオフィス21の略、トゥールスレンは「毒の木の丘」の意味です。
ここに送られた人々は常に鉄の手枷足枷で繋がれていました。当然寝る時も外してもらえず、少しでも命令に逆らったり、歩みが遅れれば鞭が飛びます。ベッドは拷問用の物しかなく、囚人たちは固い床に直接寝かされました。好きな時間にシャワーを浴びることも許されず、数か月に一度ホースで高圧放水を掛けられるだけ。食事は一日一食薄い粥のみで、骨と皮ばかりにやせ細ります。

看守に任命されたのは年端もいかぬ少年少女たち。ポル・ポト政権末期には殆どの大人が殺されてしまったので、深刻な人手不足を補うべく、カンボジア各地の子供がかき集められたのでした。彼等はポル・ポトに洗脳され、従順な兵士に生まれ変わります。しかし読み書きや計算ができない為、壁に暦替わりの線を刻んで、経過日数を数えたそうです。
取調室には鉄枷付きのベッドが置かれていました。囚人はこれに縛り付けられ、様々な拷問を受けたと言います。同じく鉄枷が付いた浴槽は水責め用。

敷地内に設置された鉄棒は絞首台と拷問具を兼ねる、トゥールスレン収容所の象徴。
囚人たちはこの鉄棒に何時間も逆さ吊りにされ、失神すると真下の甕に頭を突っ込まれました。甕の中には大量の糞便が詰まり、耐え難い悪臭が漂っています。まさにこの世の地獄ですね。

犠牲者は300万人以上!独裁政権の終焉

ポル・ポト政権の虐殺による犠牲者は300万人以上、実に国民の4人に1人が殺された計算になります。現在の人口比は極端に歪なもので、若者と老人が極端に多く、40代~50代の中高年が殆ど見当たりません。これはポル・ポト政権時代に皆殺されてしまったせい。現在生き残っている中高年は海外に留学していた者か、さもなくば亡命者の二択になります。

大前提としてキリング・フィールドは固有名詞ではありません。同じ名前で呼ばれる処刑広場はカンボジア全土に300か所以上存在し、ポル・ポト政権の残虐非道ぶりを語り継ぐ、観光スポットとなっています。
現在トゥ―ルスレン収容所はトゥ―ルスレン虐殺博物館と名前を変え、当時の記録を展示しています。
十七段の棚とガラスケースで仕切られた記念塔には、性別や死因ごとに分類した髑髏が展示されており、その圧倒的迫力に戦慄を禁じ得ません。

ポル・ポト政権下では芸術家も殺されました。手が綺麗な人は労働をサボっていると決め付けられ、美男美女は不平等なので殺されました。反体制的ロックは論外、知っている歌を全て歌い切った歌手も用済みと見なされ殺されます。
トゥールスレン収容所には2年9か月の間に2万人が収容されました。生き残りはたった8人だけ。
1978年1月、ポル・ポト率いるカンボジアは隣国ベトナムに侵攻しました。カンボジア・ベトナム戦争の始まりです。
彼の最大の誤算は自国の戦力を見誤っていたこと。成人男子の大半を処刑してしまった為、戦争に投入できる兵力が絶望的に不足していたのです。結果として首都プノンペンは陥落、ポル・ポトは残党に守られ密林に逃亡。死因は病死と公表されていますが、死体の爪が変色していたことから、毒物による暗殺を疑われています。

カンボジアの負の遺産とポル・ポトの消せない罪

ポル・ポトの死後も負の遺産は残り続けました。それが国境付近にばら撒かれた無数の地雷。ポル・ポトは地雷を「完全な兵士」と呼んで国境に埋めベトナム兵を一掃する計画を立てたものの、設置場所を記録し忘れる痛恨のミスを犯し、自爆する者が相次ぎました。

カンボジアの町角には手足を失った浮浪者が大勢いますが、これは地雷の爆発に巻き込まれた結果です。
もしカンボジアを訪れることがあれば、ポル・ポト政権の爪痕をぜひ目に焼き付けてください。

※画像はイメージです。

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