本多忠勝~徳川の天下取りを支えた武断派の家臣筆頭

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凡そ1世紀以上の長きに渡り続いた全国各地に群雄が割拠した日本の戦国時代は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑によって終わりを迎え、最終的な覇者となった徳川家康が260余年に及ぶ戦乱の無い江戸時を築いた事はあまりにも有名だ。
こうした当時の世を統一しかけた、若しくは統一した織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑に共通するのは、それを実現する事に必要な軍事力、政治力、財力が他の戦国大名らより優れていた点であろう。

先ず最初に戦国の覇者となった織田信長で考えて見れば、そうした要素の中でも無論、武力によって周囲を圧倒する実力を示した事は間違いなく、柴田勝家、滝川一益、丹羽長秀、豊臣秀吉、明智光秀らの有能な配下を抱えていた。
その織田家の地位を自身の才覚によって事実上簒奪し政権を築いた豊臣秀吉にも、加藤清正、福島正則、加藤義明等の後に賤ケ岳の七本槍と喧伝された子飼いの武勇に秀でた武将達の存在が欠かせない。
そしてそんな豊臣秀吉の死後、今度はその座を簒奪した徳川家康にも徳川三傑、徳川四天王、徳川十六神将との後の世で呼称される、徳川幕府の成立に尽力した忠実な家臣がいた事は有名だ。

徳川家康の天下取りを支えた、これら後の世に徳川三傑、徳川四天王、徳川十六神将と語り継がれている武将の中でも、特に武勇の面で間違いなく筆頭格に挙げられる人物が、今回紹介する本多忠勝である。

目次

今川家の人質武将だった時代から支えた本多忠勝

今の世に語り継がれている徳川三傑と言えば、本多忠勝・榊原康政・井伊直政の3名の武将を指し、徳川四天王と言えば彼ら3武将に酒井忠次を加えた4名を指し、何れも後世で彼らを顕彰する意で定着した呼称となっている。
生年で比較すると主君である徳川家康が1543年生まれ、酒井忠次は1527年生まれで家康より16歳も年長、本多忠勝と榊原康政が1548年生まれで5歳年少、井伊直政が1561年生まれで18歳年少となっている。

本多忠勝は通称は平八郎と呼ばれ、徳川家康が今川家の人質でその配下の一武将に過ぎなかった時代から臣下として仕え、今川義元が上洛を目指して兵を挙げた1560年の戦いに13歳にして初陣を飾った。
本多忠勝は今川軍の上洛・前進に伴い、前哨陣地である大高城への兵糧の搬入役という困難な任務を、徳川家康の配下として見事に成功させ、武将としてのキャリアの第一歩を踏み出したとされる。
ご存じのようにこの後、圧倒的な兵力を有していた今川義元は織田信長の一部の部隊による奇襲攻撃・桶狭間の戦いによって敢え無く討ち死にを遂げ、これによって徳川家康は今川家から独立した戦国大名となった。

徳川家康はこれまで今川家の敵であった織田信長と同盟を結ぶ事で、弱小ながらも独立した戦国大名の道を歩み、本多忠勝らはそんな状況下で主君を支え、家康を盛り立てていくべく幾多の戦い従軍した。
そんな弱小ながらも戦国大名となった徳川家康だったが、1563年9月に支配地であった三河地域でも一向宗の一揆が勃発、多くの一向宗門徒の徳川家家臣らが主君である家康から離反し、一揆側に加わった。

本多忠勝も元々は一向宗門徒だったが、浄土宗へと宗派替えをして主君家康への忠義を貫き、かつての仲間であった一向宗門徒を敵に回しながら戦い、1569年には齢19にして旗本先手役を務めるなど頭角を現した。
因みにこの三河一向一揆において、本多忠勝と同族ではあったものの本多正信は家康側から離反して一揆側についており、後にこの一揆の鎮静後帰参を許されたが、忠勝自身は正信を終生信用していなかったとも伝えられている。

家康に過ぎたる者と武田軍からの評された本多忠勝の武勲

1570年には織田・徳川軍と浅井・朝倉軍の両軍が争う姉川の戦いが発生、徳川軍は凡そ5,000名、対峙した朝倉軍は凡そ10,000名と数的不利な状況に置かれ、大将たる家康の本陣を脅かされる事態に遭遇した。
この自軍の窮地に際して本多忠勝はなんと一騎掛けを仕掛け、その姿勢に劣勢だった徳川軍は勢いを取り戻し、見事朝倉軍を押し返して勝利を収め、その武勇と武名を大いに世に知らしめる事となった。

またその2年後の1572年には徳川家は当時戦国最強を謳われた武田家の侵攻を受けたが、ここでも本多忠勝は一言坂の戦いで武田家の名うての名将・馬場信春の軍勢を向こうに回しながら、同僚の大久保忠佐とともに家康本体を守った。
続く同年12月に生起した武田軍との三方ヶ原の戦いにおいても、本多忠勝は徳川軍の左翼に布陣、ここでも数に劣る戦いながら武田家の猛将・山県昌景の軍勢を相手にこれを退ける事に成功している。

この後徳川軍にとっては、武田軍の大将であった信玄が病で急死すると言う幸運にも恵まれたが、翌1573年に本多忠勝は榊原康政らと長篠城を陥落させ、2年後の1575年の長篠の戦いでは織田家との連合軍で武田軍を完敗に追い込んだ。
以後劣勢となった武田軍を相手に、本多忠勝は1580年に高天神城の奪還にも貢献、その武勇は徳川軍内に留まらず、広く日本全国にまで遍く響き渡り、主君である家康の賞賛は元より、織田信長にも花実兼備の将と称えられた。

一言坂の戦いで本多忠勝の比類なき戦働きを目の当たりにした武田軍の小杉左近は、忠勝と唐の頭は家康にはもったいない存在であるとの狂歌を残したが、唐の頭とは家康が好んで用いた中国大陸生息の牛科の珍獣・ヤクの毛をあしらった兜の装飾を指す。
当時流行した装飾とは言え、かなりの貴重品であるヤクの毛をあしらった唐の頭と並び称する程に、本多忠勝の武勇が突出していた事を表すエピソードとして、この狂言は今にも伝えられている。

織田・豊臣の天下の時代の本多忠勝

織田信長が天下を手中に収めかけた1582年、織田家中の実力者・明智光秀が本能寺の変で信長を無きものとした際には、徳川家康は大阪・堺に織田家の招きを受けて少人数で滞在しており、本多忠勝もそれに帯同していた。
徳川家康自身は明智勢の追手に手にかけられるより自害して果てる道を選ぼうとしたとも言われているが、この時家康に伊賀山中を超えて自国領に戻るべきだと強く進言したのが本多忠勝だったとされている。
結果、徳川家康は無事この伊賀越えを成し遂げて自国領へと逃れる事に成功し、ここでも主君である家康の窮地を救った功労者が本多忠勝であったと今の世にも伝えられている。

件の謀反を起こした明智光秀は、中国攻めを中断して神速で京へと戻った豊臣秀吉らの軍勢によって倒され、時代は秀吉が織田家から政権を簒奪する方向に動き、徳川家は織田信長の次男・信雄と結び秀吉と対峙した。
こうした状況下、1584年4月には豊臣方と織田信雄・徳川家康の連合軍との間で小牧長久手の戦いが勃発、総勢160,000名もの兵力を動員した前者に対し、後者は何とか戦術的な勝利の積み重ねで対抗を余儀なくされる。
本多忠勝自身はこの小牧長久手の戦いにおいては、前線ではなく後方待機を命じられていたが、豊臣方の大軍勢の前に戦線が崩壊しかねない窮状を耳にし、僅かな手勢を引き連れて出陣を行った。

豊臣勢の大軍勢を前に本多忠勝は単騎で前線に現れ、龍泉寺川で愛馬に水を飲ませる姿を晒して挑発したが、これを聞いた豊臣秀吉は敢えて自軍に対して討ち取る下知を下さなかったと言われている。
それは豊臣秀吉がこれまでの本多忠勝の武勇と武名を惜しみ、自身の側の大兵力で討ち取るには偲びないと考えた為とも伝えられており、如何に忠勝が音に聞こえた武人であったのかを知らしめる逸話ともなった。
小牧長久手の戦いは、結果としては豊臣秀吉の政治力に篭絡された織田信雄が講和を受け入れた為、徳川家康も戦う大義名分を失う事となり、1586年にはその傘下に下り、豊臣政権に臣従する事で幕を閉じた。

晩年の本多忠勝

こうして豊臣政権に臣従した徳川家康は、北条家が豊臣方に滅ぼされた後、その後釜として関東の地に領地替えを受け入れ、徳川家家臣団の中で井伊直政の12万石に次ぐ10万石を、榊原原康政と本多忠勝とに与えた。
豊臣秀吉が1598年に死去すると、その政権内で五奉行の筆頭であった石田三成と、五大老の筆頭であった徳川家康の対立が顕在化し、両者は1600年の関ヶ原の戦いで雌雄を決する事になる。

本多忠勝はその前段階となった竹ヶ鼻城や岐阜城の攻略に従事した他、関ケ原の戦い自体でも武功を挙げ、徳川方の勝利に大きく貢献、その働きを評価され翌年1601年に、伊勢の桑名に10万石を与えられた。
こうして本多忠勝は伊勢の桑名藩10万石の初代藩主となり、居城である桑名城の修復や宿場町としての桑名の町の整備に努め、武勇のみならず為政者としてもその才覚を発揮したと見做されている。

但し徳川家康が1603年に征夷大将軍となり江戸幕府を起こして以降は、本多忠勝らのような武勇に秀でた家臣らよりも、前述したように忠勝自身は終生嫌悪していた本多正信・正純親子などの治世に秀でた者らが重用された感が強い。
本多忠勝は1609年には隠居の身となり、翌年1610年に63歳で病没、徳川家康に天下を取らせた忠誠心の厚さで広く世に知られた稀代の三河武士として、その生涯を全うした。

三河武士を体現した存在とも思え本多忠勝

本多忠勝と言えば切れ味鋭い名槍・蜻蛉切や名刀・中務正宗を携え名馬・三国黒を駆り、その生涯において57度もの戦に参加しながら、その身にはかすり傷一つ負う事が無かった剛勇の武将だと評されてる。
こうした言い伝えは本多忠勝の武勇を殊更に強調する為の、些か大袈裟な後世の創作のようにも思えるが、当時戦国最強とまで謳われた武田軍に対し、寡兵でも驚く程の働きを見せた事は特筆に値するだろう。

徳川家康はこれほどの忠義と武勇を示した本多忠勝に対しても、天下を収めた後も10万石と言う控えめな処遇に留めたとも感じられ、中央より離れた地とは言え子飼いの加藤清正や福島正則に20万石前後を与えた豊臣秀吉との違いを感じて止まない。

featured image:日本語: 不明。 English: Unknown, Public domain, via Wikimedia Commons

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