5代の天皇に仕えた「武内宿禰」

当サイトは「Googleアドセンス」や「アフィリエイトプログラム」に参加しており広告表示を含んでいます。

武内宿禰(たけのうちのすくね)は5人の天皇に仕えたと忠臣と伝えられています。
ここでは仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、仁徳天皇に関して記された事から、武内宿禰の生涯について考えてみました。

目次

武内宿禰の働き

仲哀天皇が熊襲鎮圧の遠征途上で熊襲の矢が当たり逝去されたとき、武内宿禰は天皇の喪を秘匿し、密かに天皇の遺骸を海路で豊浦宮に運び、殯(もがり)を行い神功皇后に報告しました。

後の応神天皇である神功皇后の皇子を皇太子として保護し、仲哀天皇の崩御を聞いて反乱を起こした忍熊皇子の軍を数万の軍を率いて破りました。武内宿禰は戦も強かったようです。

神功皇后の命により皇太子を伴って気比神宮に参拝し、その後、皇太子に代わって神功皇后に返歌を行いました。武内宿禰は、歌を詠む才能もあったようです。

応神天皇の7年に、高句麗人と百済人と任那人と新羅人とが来朝の際、武内宿禰は、応神天皇の命でそれら韓人を率いて韓人池を造りました。

応神天皇の命により武内宿禰が百姓の監察に筑紫へ派遣されている間に、武内宿禰の弟である甘美内宿禰が兄を廃そうとして応神天皇に讒言しました。
応神天皇は武内宿禰を殺すために使者を出しましたが、真根子が身代わりとなって殺されました。

武内宿禰が朝廷に戻って応神天皇に弁明した結果、武内宿禰と甘美内宿禰は盟神探湯(くがたち)で結論を出すことになり、武内宿禰の言が正しいと裁定されました。

武内宿禰とは

仁徳天皇元年に、応神天皇の子(後の仁徳天皇)の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)と武内宿禰の子は同日に生まれました。その際、応神天皇の子の産殿には木兎(ミミズク)が飛び込み。竹内宿禰の子の産殿には鷦鷯(ミソサザイ)が飛び込んだので、鳥の名を交換してそれぞれの子に名を付けました。

名前の交換は、災いを避けるという意味があったのでしょうか?
しかし考えてみれば、応神天皇にとって武内宿禰は、応神天皇が皇位につくことを支えてくれた恩人でもあります。
応神天皇と武内宿禰は、それほど親しい関係にあったのでしょう。

武内宿禰の人となりは、「道理に厚く暖かい人柄であり、勇敢で戦に強く判断力に富み、臣下にもてば、これほど頼りになる人物を他に知らない」というところです。

featured image:Utagawa Kunisada, Public domain, via Wikimedia Commons

面白かった?

平均評価: 3 / 5. 投票数: 2

投票がありませんよ、最初の評価をしてね!

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!

思った事を何でも!ネガティブOK!

コメントする

コメントは日本語で入力してください。(スパム対策)

目次