戦争と覚醒剤蔓延の歴史

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クスリ、ダメ、ゼッタイ・・・覚醒剤の危険性はもはや周知の事実。
とはいえ、その魅惑の効能に抗えず、手を出し堕ちていく人間がいるのもまた事実である。

名前の通った有名人からどこにでもいるような市井の人まで、聞けばなぜこんな人達が?と思うような人々が薬物にはまっていくニュースに、常に危険は私たちの背後で舌なめずりをしているという現実を突きつけられる。
さて、薬物、とりわけ覚醒剤は一体いつから私たちの生活に潜り込んできたのか?
その背景にあるのは第2次世界大戦だった。

目次

覚醒剤の起源

古来から大麻やアヘンなどの薬物が社会に蔓延っていた。
一方で同じ薬物であれど、これらのダウナー系の薬物とは異なり、興奮を引き出すアッパー系の薬物の代表である覚醒剤はいつ頃できあがり、私たちの社会に浸透したのだろうか。

実は覚醒剤のきっかけを作り出したのはある1人の日本人だった。
覚醒剤の起源は、麻黄(マオウ、マオファン)という薬草だと言われている。
麻黄は東アジアで古くから使われており、特に中国では風邪や喘息の治療に用いられていた。

1885年、日本の化学者、長井長義が麻黄に含まれるエフェドリンという成分を発見する。
この発見は呼吸系疾患治療の光とされており、現在でも医薬品に利用される成分だ。
1893年、長井は麻黄研究の過程でエフェドリンからメタンフェタミンという成分を合成することに成功し、1919年に薬学者・緒方章がメタンフェタミンの結晶化に成功した。

一方時を遡り1887年、ドイツ・ベルリン大学でアンフェタミンという物質が初めて合成される。
同じような時期に合成が成功した成分ではあったが、どちらも当初はそこまでの注目を集めることはなかったようだ。

しかし、この2つの成分にある特徴があることがわかり、脚光を浴びることになる。

アンフェタミン、メタンフェタミン~覚醒剤の完成

1927年、アンフェタミンには中枢神経を刺激し、疲労感や眠気の除去に食欲減退、集中力や身体能力を一時的に高めるといった効果があることがわかる。

この効果から、1930年代には欧米で市販薬としてアンフェタミンは暮らしの中に広がっていく。
特に人気を博したのがアメリカで発売された「ベンゼドリン」という薬だ。
ベンゼドリンはアンフェタミンの商品名だったのだが、眠気覚ましや痩身など薬のもたらし、一般市民は魅了され、いわば万能薬として大ヒット商品となる。

そしてアンフェタミンよりも強力な効能を持つことがわかった、メタンフェタミンも同様に社会に広がっていく。
興奮、覚醒作用や多幸感をもたらす薬品と言えば、もうお分かりだろう。
これらの成分は何を隠そう覚醒剤そのものなのだ。
当時はこのような薬剤を服用することによる耐性や依存性、副作用に関する研究はまだ少なく、ましてや一般市民は知る術などなかった。

1936年に開催されたベルリンオリンピックでも、アメリカ選手はベンゼドリンを使用し、その甲斐もあったのか華々しい結果を残す。
こうして覚醒剤は知らず知らずにの間に人々に浸透していったのだ。

第2次世界大戦と覚醒剤

すっかり普通の薬として日常生活に馴染んでいった覚醒剤。
人々はあくまで日常やスポーツの世界で本人の実力や、それ以上の力を発揮するためのエナジードリンクの要領で使用していただけだった。

しかし全く別の理由でアンフェタミンやメタンフェタミンに注目した者がいた。
当時すでに隆盛を誇っていたアドルフ・ヒトラー総統率いるナチス・ドイツ。

ナチスの覚醒剤研究

眠気覚ましになり、集中力を高め、時には危険へと立ち向かう勇気を与える薬。
不眠不休で危険を厭わず突撃していく、超人的な兵士を作り出す覚醒剤は軍にとって、さぞや魅力的な兵器であったに違いない。

ナチス統制下において大麻やアヘンなどダウナー系の薬物は優秀なるアーリア人の気力を削ぐとして忌避されていた。だが、やる気を増幅させ、時に本人の能力を超えた精神や肉体的強さを発揮させるアッパー系の覚醒剤の威力は、人種の優位性を説くナチスにおいて思想的にも、まさにぴったりの薬だったのだろう。
ドイツ国内では「ペルビチン」という名前でメタンフェタミンが市販されており、ナチスはすぐに研究と実用化に乗り出した。

1939年、ドイツによるポーランド侵攻と共に始まった第2次世界大戦。
ナチスは兵士たちにぺルビチンを配給する。
特に長距離移動を強いられる戦車部隊や歩兵、夜間飛行をする空挺部隊には積極的に支給され、眠ることなく数日間にわたって戦い続ける兵士を作り出すことに成功した。

開戦当初のナチスドイツが破竹の勢いで、地続きの西ヨーロッパを制覇出来た要因は、軍の能力の高さや戦術、戦略のすばらしさ、当時の最先端兵器の投入し、敵である連合国側の混乱や対応の失敗など色々とあるだろう。
しかし、それらを最前線で支える兵士の不眠不休の連続行軍や士気高揚にぺルビチンが一役買ったのだとすれば、覚醒剤こそがこの戦況有利を生み出したといっても過言ではないだろう。

連合国軍の覚醒剤利用

ナチスドイツの覚醒剤による快進撃に追随したのが連合国軍。
アメリカで市販されていたベンゼドリンはイギリス軍とアメリカ軍でも使われ始め、特に長距離移動や夜間飛行など長時間任務を強いられる空軍で重用され、戦争の激化と共に急激に兵士らの間で広がった。
もはや覚醒剤は戦争になくてはならないツールと化したのだ。

だが、ペルビチンもベンゼドリンも名前は違えど、ほぼ同じ覚醒剤。
一時の覚醒作用と引き換えに、後から恐ろしい副作用がその身を襲う。

戦場には大量の薬が出回っていたようだが、それでも足りず、前線の兵士から祖国の家族宛に手紙で薬を乞うこともあったそうだ。
戦況の拡大や国民総動員状態で、戦場での必要数が足りていなかったとも考えられるが、薬への依存性が出てきて、覚醒剤の副作用に苦しんでいる者もいたのかもしれない。

殺し殺される恐怖と覚醒剤の禁断症状、最前線で、この究極の苦しみに苛まれる兵士がいたのかと思うと不憫でならない。

ヒトラーと覚醒剤

需要が戦場で急拡大した覚醒剤、その波に溺れたのは末端の兵士だけではなかった。
ナチス・ドイツのトップであったアドルフ・ヒトラーもまた薬を使用していた1人であったのだ。

そもそもヒトラーは若い頃から不眠や不安障害に悩まされていたとされている。さらに第2次世界大戦開戦後には消化器官をはじめとする、内臓の不調も患うようになった上、パーキンソン病であったことも分かっており、健康状態良好とは言い難い状況だった。

そんなヒトラーを支えるようになったのが、テオドール・モレルという医師。
このモレル医師はヒトラーの主治医として就任した当初から様々な薬をヒトラーに投与していた。
カフェインやビタミン剤、コカインやストリキニーネなど現代では麻薬や毒物とされる劇薬、よくわからない薬まで多岐にわたり使用し、果たしてその治療方法には疑問が残るとされている。

モレル医師はヒトラーにアンフェタミンやメタンフェタミンも日常的に投与していた。
恐らくは不眠やうつ状態、パーキンソン病からくる手の震えなどを押さえるための薬として使われたのであろう。

これらの薬を使えば一時的に症状は改善する、いや改善したかのような気分になれる。
ヒトラーはモレル医師の対処が気に入ったようで、重用して自殺の直前までそばに控えさせていた。

戦争末期、それまでドイツ優位に進んでいた戦況は一転、連合国軍、そしてソ連に押されることになる。
ドイツにとっての戦況悪化の要因は数多考えられるが、大きな要因の1つとしてヒトラーの失策が挙げられる。
ヒトラーのパーキンソン病が悪化したのが1942年頃と見られており、大黒星を喫したスターリングラードの戦いの頃と一致する。
つまり病状の悪化や過剰な薬物の摂取、もっと言えば覚醒剤がヒトラーの判断力や決断力を鈍らせた可能性は多いにあるのではないだろうか。

もちろん複合要因であるし、モレル医師がどの程度の量をヒトラーに投与したのか正確な記録がなかったため、覚醒剤が根本原因だと言い切ることは難しいが、だからといって無関係だったと言うこともできないはずだ。
逆にモレル医師ではない、病状を正確にとらえて的確な処置を施せる主治医であったとすれば、ヒトラーの健康や思考能力、判断力が維持され、第2次世界大戦の戦況や結果が変わった可能性も大いに考えられる。

個人的には枢軸国敗戦の結果が変わるとまでは思わないが、戦況はより一進一退の状況となり戦争は長期化した可能性もあるのではないだろうかと思う。
ヒトラー個人にとって覚醒剤が有益なものだっとは思えないが、戦争終結という点から見れば覚醒剤は戦争を止める楔の1つであったのかもしれない。

日本の覚醒剤

メタンフェタミン発祥の国、日本も他国に漏れず、覚醒剤の浸食を受けていた。
そして覚醒剤の出始めと共に起こった戦争。
この戦争が覚醒剤とこの国の切っても切れない関係の基礎を生み出すことになる。

日本の戦争と覚醒剤

1941年真珠湾攻撃当時、日本国内では20種を超えるアンフェタミンやメタンフェタミンを含む、覚醒剤が販売されており、一般市民にもある程度広がっていたことが想像できる。
日本でも軍部が覚醒剤を調達し、軍需工場などでは昼夜問わず生産するために使用されていたようだ。

ただ、実際に戦場で使用されたいたのかというと話は別になってくる。
ドイツ、アメリカ、イギリスと同じように戦闘機に乗る者や夜間哨戒の任務に就く者などの間で使用されていてもおかしくはなさそうだが、公式な使用の記録や当事者の証言が表舞台には出てきていない。
戦争末期、生きて帰ることを許されなかった特攻隊にも覚醒剤が支給されたという正式な記録はないとされている。

特攻生還者が出撃前に軍医から注射されたブドウ糖が、後にあれは覚醒剤だったと言われた。
軍需工場で働いていた女学生が兵隊向けのチョコレートをこっそり舐めると体が熱くなり、覚醒剤でも入っていたのではないかと回想したなど、いくつかの証言はあるのだが真偽は定かではない。

では記録通り、本当に覚醒剤が軍隊内で支給されたなかった、あるいは支給されたことが公的記録に残らない理由は何だろうか。
それは前線で戦う兵士たちが、天皇のものであったからではなだろうか?

建前として、大日本帝国時の日本国民は臣民という位置づけで、天皇に従う者と考えられていた。
臣下である兵隊もお国のために、天皇のために戦っていたということになっているし、その純粋な崇拝を美談としている向きもある。
そのような気持ちや兵隊たちの戦果が、覚醒剤によって駆り立てられたのだとしたら、その美談に傷がついたような雰囲気となってもおかしくない。

日本軍は組織だって覚醒剤を使用していたのか否か、おそらく真相は永遠に闇の中だろう。

戦後の日本に蔓延った覚醒剤

戦時中から様々な名称で市販されたいたメタンフェタミン・アンフェタミンだったが、戦争が終わると一気に市場に蔓延することになる。
軍需物資として製造されたメタンフェタミン・アンフェタミン、つまり覚醒剤が市場に放出されたためだ。

放出された覚醒剤が嗜好品の中では、かなり割安だったことも一気に広がった理由だろう。
当時の値段で覚醒剤の注射10本入りで約81円、一方で日本酒の並等酒はl升で約645円であったので、覚醒剤の方が手を出しやすかったのは一目瞭然だ。
こうして特にメタンフェタミン剤が蔓延していったのだが、数多あった商品の中で最も有名になったのが「ヒロポン」だ。

戦後覚醒剤の代名詞ヒロポン

ヒロポンは大日本製薬株式会社(現・住友ファーマ株式会社)が製造したメタンフェタミン商品。
なお、大日本製薬はメタンフェタミンを最初に合成した、長井長義が技師長を務めていた会社でもある。

数多あった市販覚醒剤の中でなぜ、ヒロポンが圧倒的シェアを獲得したのかは謎とされているが、理由の1つに商品の名前があるのではないだろうか。
ヒロポンの名前の本来の由来はギリシャ語の「ピロポノス、労働を愛する」という言葉にあるそうなのだが、一般市民の間では「疲労がポンととれる」だと聞いたことがある人は多いと思う。
この疲労がポンととれるの方の名前の由来は、恐らく商品発売後に広まった一種のシャレのようなものだと思う。
この名前のわかりやすさが、人々に受け入れられたのだと考えられないだろうか。

某製薬会社の医薬商品名がネーミングが、あまりに特徴的過ぎて強烈に印象に残るのと一緒だ。
名前からわかる薬の効能と、「ヒロポンない?」などと気軽に聞ける、言いやすさと覚えやすさ。
そういった意味ではマーケティングセンスのある名前だったのかもしれない。
そんな手に入りやすさと副作用への無知から、ヒロポンは芸能界や文筆家、娼婦や戦争孤児の少年少女にまで広がってしまう。

特に芸能界での蔓延り方は顕著で、舞台の出番を待つ楽屋のテーブルには誰が置いたのかヒロポン入りの注射器が何十本をまとめて机に置かれており、打ち放題だったというのだから恐ろしい。
一体どれだけ定着していたのかといえば、日曜日の夕方に放送される国民的アニメの原作やパイロット版的な作品にもたびたび登場する。
そのなかのエピソードの一つに、机の引き出しにしまっておいたヒロポンを小学生と幼児が飲んでしまい、ラリって踊りはしゃぎ回るというシーンが描かれている。
今のご時世なら犯罪だと思うが、時代が変わると恐ろしい。
だが当時、ヒロポンは完全に市民権を得てお茶の間まで浸透していた証拠でもあるだろう。

ヒロポン蔓延に伴い、ヒロポン中毒者も急激に増加。
敗戦後5年と経たない1949年には、全国で数十万人単位のヒロポン常用者が存在すると推定された。
さすがの事態に、1951年には「覚醒剤取締法」を制定され、販売・使用・所持が原則禁止され覚醒剤根絶への取り組みが始まった。

しかしここまで浸透したヒロポンがそう簡単になくなるわけはないし、法律が制定されたからと言ってヒロポン中毒者、ポン中の人々がすっぱりと薬物から足を洗えるわけがない。
ポン中たちの中には手に入りにくくなったヒロポンを求めて、犯罪に手を染める者が増加する。
その様はヒロポン禍とも呼ばれ、日を追うごとに犯罪は凶悪化。

中毒者による集団強姦やヒロポンは奪うだけでなく、持っている者を脅し暴行するなど過激化していった。
さらに中毒者も年を追うごとに増加し、ついに文京区小2女児殺害事件と呼ばれる事件が発生する。

ヒロポン中毒者の起こした犯罪・文京区小2女児殺害事件

1954年、ある20歳の男がトイレを借りに小学校にやってくる。
当時の学校は防犯意識などという概念がなく、無関係の一般人も自由に小学校に出入りできた時代だった。
無論、この男が善良なる一般市民であれば問題はない。しかし、男は素行不良のヒロポン中毒者だったのだ。

入ってきた男は用を足した際に、たまたまトレイにいた小学2年生の女子児童を発見する。
トイレの扉を少しだけ開けたままトイレを使用していた女児に男は欲情。無理矢理トイレに押し入って女児にいたずらをし、あまりの事態に女児は泣き出した。
その姿に焦ったのか苛立ったのか、男は女児の下着を本人の口に詰め込み黙らせた上で暴行を働く。
それにとどまらず、男は自分のハンカチで女児の首を絞め殺害し、その場を去ったのだ。

教育現場で子どもが殺害されるというショッキングな事件に世間は驚愕し、さらに逮捕された男がヒロポン中毒だとわかるとさらに社会は騒然となった。

逮捕後、男は強姦殺人の罪で起訴され、裁判を経て死刑が確定する。
22歳の時に死刑が執行されることになったのだが、男が最期に発したのは「お先に!」にというまるで映画スター気取りのような言葉だったそうだ。

直情的で無計画、その上、死に際の言葉をとってもどこか異常性を感じさせるこの事件。
男の元来の性格や性質もあるのだろうが、ヒロポンが男の精神状況に全く影響していなかったとは言えず、男のヒロポンがこの短絡的な犯行に繋がった側面も大いにあるだろう。

なくならない覚醒剤

そして戦後から今日までに至るまで、薬物と人間との戦いは一進一退。
法を整備した後から新たな薬物が生まれ、どれだけ取り締まりを強化しても薬物の売買と使用の連鎖は止むことがない。
1951年の覚醒剤取締法制定以降、薬物の売買の現場が地下に潜り、暴力団などの反社会勢力が取り仕切るようになったことで値段は暴騰。人間は金とドラッグの誘惑に抗えず、この関係を断ち切ることができないまま今日に至るし、人類がこの誘惑を断ち切ることはおそらく不可能なのだろう。

なお、あのヒロポンは今でも存在する。

ヒロポンは覚醒剤取締法における「限定的な医療・研究用途での使用」が認められており、ナルコレプシーや鬱病などの症状の治療を目的に徹底された管理の元に生産・販売が続けられており、今は病に苦しむ人の一助となっている。
すべての覚醒剤がヒロポンのように有益に利用される日が来ればいいのだが。

featured image:大日本製薬株式会社, Public domain, via Wikimedia Commons

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