朝廷の太政官の頂点から悪霊、神にまでなった菅原道真

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菅原道真、その人の名を聞けば多くの日本人はすぐ様、「学問の神様」である事、福岡の太宰府天満宮は元より、多数の神社に祀られ今も厚い信仰の対象となっている事などを想起するのではないだろうか。
私自身の個人的なイメージでは、菅原道真は朝廷の高官として栄華・栄達を一時は極めたものの、政敵の策略によって地位を剥奪され、左遷された地で非業の最期を迎えた人物だと感じる。

そして菅原道真の死後、朝廷内の人々が次々と落命する事態が発生した為、人々の多くが彼の祟りではないかと恐れおののき、その祟りを鎮めんと願うべく、一転神として神社に祀られたという流れだ。
今回はそんな菅原道真について、生い立ちと悲劇的な最期、そして今に至る「学問の神」として尊敬を集めるに至った足跡を、及ばずながら紹介して見たいと思う。

目次

菅原道真の生い立ち・順調に朝廷で頭角を現す

菅原道真は平安時代(現在の京都に置かれた都・平安京において朝廷が日本を統べていた時代)に、そこに仕える官位:従三位、官職:参議の父・菅原是善の三男として845年8月に生を受けた。
菅原氏は日本神話に登場する男神である天穂日命の子孫を称し、後に大和国の菅原邑に因んで菅原姓を名乗り、平安時代の初期から儒学を修め、菅家廊下と称される私塾において紀伝道を生業とする文人一族であった。

そんな一族に生を受けた菅原道真は、856年に齢11歳にして漢詩を詠むなど文才の片鱗を見せ、862年に18歳となった年には紀伝道を専攻する学生である文章生となり、5年後の23歳の時にはその中の上位2名のみの文章得業生に選抜された。
これにより菅原道真は官位:正六位下、官職:下野権少掾に叙任され、更に3年後26歳となった870年には官吏の登用試験に合格、官位を正六位上まで上げ、続いて4年後30歳の時の874年には官位:従五位下、官職:兵部少輔、その後民部少輔となった。

この頃には既に当時の朝廷の実力者であった藤原基経からも、菅原道真の文才は高く評価されており、更に3年後の33歳の時の877年には官職・式部少輔、そして文章博士をも兼任する地位まで上った。
続く879年、35歳の時には官位:従五位上に叙任され、翌880年の36歳の時には父の是善が没した為、祖父である清公以来の私塾・菅家廊下の運営も引き継ぎ、当時の朝廷内の文人として第一人者の地位を確立していたと考えられる。
但し886年、42歳となった菅原道真は、現在の四国の香川県にあたる讃岐を治める国司である讃岐守に任じられた為、赴任し際しこれまでの官職である式部少輔と文章博士を辞す事を余儀なくされた。

菅原道真が讃岐守を務めていた44歳の時の888年、朝廷内部では宇多天皇と実力者の藤原基経とが政治の主導権を巡る争い・阿衡事件で衝突し、菅原道真は本件の発端である橘広相を庇う意見書を藤原基経に送ったとされる。

菅原道真の朝廷での栄華・栄達

そして890年、菅原道真は46歳の時に讃岐守の任を終えて京へと戻り、宇多天皇は同年病気で没した橘広相に替えて、翌891年には菅原道真を47歳にして自身の側近である官職の蔵人頭に任じた。
菅原道真本人は蔵人頭に就く事は、自らの出自に照らして過分な措置であるとの見解を示していたようだが宇多天皇は聞き入れず、更に菅原道真を官職の式部少輔並びに左中弁に任じて重用した。

892年、菅原道真は48歳の年に官位で従四位下を叙任、同年末には左京大夫に任じられ、翌893年53歳の年には参議兼式部大輔を叙任した為に公卿に名を連ね、更に左大弁をも兼務し宇多天皇からの信任が如何に厚かったかが偲ばれる。
菅原道真は894年、50歳の時には遣唐使を束ねる長たる遣唐大使に就くが、当の唐王朝自身が当時は政情が不安定化しており、遣唐使を実際に派遣する事は行われなかった。

895年、51歳の時に菅原道真は複数の先達を追い抜いて官位:従三位、官職:権中納言及び権春宮大夫に叙任され、このとこからも宇多天皇が特別に目をかけた存在であった事を示すものと考えられる。
菅原道真は896年、52歳の時に自らの長女を宇多天皇の後宮の寝所に仕える女御として差し出し、その2年後の898年、54歳の時には自らの三女を宇多天皇の皇子である斉世親王の妃に差し出した。

これらの自らの娘たちの件と前後して、菅原道真は897年、53歳の時に権大納言兼右近衛大将に叙任され、この時同時に大納言兼左近衛大将に叙任された藤原時平と2人で朝廷の太政官の頂点に君臨する。
この同年には菅原道真を重用した宇多天皇は第一皇子の敦仁親王に譲位を行い、彼を醍醐天皇としたがそこでも菅原道真は厚遇され、899年、55歳の時に右大臣に推され、先に左大臣となっていた藤原時平と並び続けた。
更に901年、菅原道真は57歳の時に官位も従二位に叙任され、先の官職の右大臣と併せて藤原時平と共に朝廷の太政官の最高位を得たが、悲劇は突然に彼の身に降りかかった。

突然の失脚と死、怨霊となり数多の犠牲を産んだ?

前述したように901年び菅原道真は57歳にして、官位:従二位に叙任され官職の右大臣と併せて藤原時平と共に朝廷の太政官の最高位を極めたが、その直後に三女を嫁がせた斉世親王に皇位を得る策謀を企てたかどで失脚を余儀なくされた。
この後、菅原道真は現在の福岡の大宰府に左遷を命じられ、その役職もこれまでの朝廷で栄華・栄達を極めた彼には不釣り合いな程低い、大宰員外帥という小役人として赴任させられたものとなった。

何にしろこの菅原道真の太宰府への左遷に際しては、赴任に必要な移動の経費なども自腹とされ、更にその後の大宰員外帥という役職には俸給も支給されず、また従者を付けられる事も無かったと伝えられている。
菅原道真は大宰府にて基本的な衣食住にすら事欠く生活を強要され、その過酷な生活が彼の体を蝕んだのか、赴任から2年後の903年、59歳にして大宰府にて死去、かつての栄華・栄達からは程遠い最期だったと言えよう。

この菅原道真の失脚の要因は、彼と朝廷内においてその権力の双璧を成した藤原時平が、斉世親王を皇位を得る策謀を企てたとする讒言を醍醐天皇に行った為との見方が定説だが、他の多くの菅原氏よりも家格が上の貴族達の総意だったとも言われている。
そして菅原道真の死去から5年を経た908年、彼の弟子でありながらその失脚に関与したとされる藤原菅根が雷を受けて落命、翌909年には讒言をした藤原時平本人も齢39にして病死してしまう。
これらの出来事と並行して天候でも異常気象が続いた事もあって、いつしか朝廷の人々を中心にそれらは菅原道真の怨霊が引き起こした祟りではないのかとの憶測が広まっていったとされる。

但しこうした不慮の死はその後も続き、923年には醍醐天皇の皇太子・保明親王が齢21歳で病死し、この保明親王の子であった慶頼王も925年に僅か5歳で早逝するなどの事態が生じた。
更に930年には御所内の清涼殿が落雷に見舞われ、ときの大納言であった藤原清貫ら複数の死者を出す惨事となり、その様を直接目にした醍醐天皇も3ケ月後に崩御するなど、悲劇は続いた。

怨霊から一転、北野天満宮天神として学問の神となった

こうして菅原道真は自身が903年に死去した後、前述したように908年から930年にかけて数多の朝廷関係者の不慮の事故や病気による死を引き起こした怨霊として人々に恐れられる存在となった。
923年に自身の皇太子である保明親王の齢21歳での病死に直面した醍醐天皇は、官位:従二位、官職:大宰員外帥で死去した菅原道真に対し、同年に官職を右大臣に戻し、且つ官職に正二位を追贈して弔う姿勢を示した。

その醍醐天皇が930年に崩御した原因も時の朝廷内では菅原道真の怨霊によるものと見做された為、947年、京の北野にあった朝日寺に菅原道真を祀るべく新社殿が造営され、その名称も神宮寺と新ためられた。
その41年後の987年、神宮寺では初勅祭が執り行われたが、ときの一条天皇から「北野天満宮天神」の勅号が授けられ、菅原道真は今に続く由緒ある神となり、更に993年には官位:正一位、官職:左大臣、その後も太政大臣の追贈を受けた。

弓術などの武芸にも秀でていたという伝承

こうして自らの非業の死の903年から43年を経た947年に、菅原道真は神宮寺に祀られる神となり、これが一条天皇によって北野天満宮天神と改められ、現在の我々が知る学問の神様となっていった。

死後は紆余曲折を経て神様となった菅原道真だが、生前も優れた文人・文官として活動していた事は冒頭で記述した通りである。しかし一部の伝承等では弓術にも秀でており、常に太刀を帯びていたとも伝えられている。
こうした伝承は多くの人々が持つ、文化人として固定化された菅原道真のイメージを一新するもののようにも思え、個人的にも少し意外な感じが否めない。

※画像はイメージです。

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