皆さんは嘗てイギリスで活躍した画家、リチャード・ダッドをご存じですか?
背景を細密に描き込んだ幻想的な絵画で人気を博した彼は、エジプト旅行後に誇大妄想に取り憑かれ実父を殺害し、残り一生を精神病院で過ごしました。今回はそんなリチャード・ダッドの数奇な生涯を追っていきたいと思います。
絵を描き始めたのは13歳 才能を認められロイヤルアカデミー美術学校に入学
リチャード・ダッドは1817年8月1日、イギリスのケント州チャタムで生まれました。父親は地元の名士を兼ねる薬剤師ロバート・ダッド、母親は船大工の娘メアリー・アン。ロバートは商売が上手く実家は裕福で、のちにロンドンに進出し、メッキ工場を営んでいます。
ダッドには他に四男三女合わせて7人の兄弟がいましたが、なんとこのうち四人までもが精神病院で亡くなっています。実母の他界後に出来た異母弟2人には何の問題もなかったのを顧みるに、母方の血筋に問題があったのでしょうか?父親が経営する工場から垂れ流された水銀が、子供たちに悪影響を与えた可能性も捨てきれません。
絵に目覚めた時期は遅く、思春期の入口の13歳。その後メキメキと頭角を現し、弱冠20歳にしてロイヤルアカデミー美術学校に入学。同じ年に『眠るティターニア』と『パック』の2作品を発表し、華々しい画壇デビューを飾ります。
当時のイギリスではヴィクトリアン・フェアリー・ペインティング……即ち妖精画が隆盛を極めていました。これは産業革命による自然破壊や急激な都市化に反発を覚えた勢力が推進したブームで、古典文学や神話をモチーフにした、幻想的で美しい絵画が人気を集めたそうです。
ダッドと同時代の画家、アンスター・フィッツジェラルドも『繋がれたクックロビン』『鳥の巣で眠る妖精』など、数々の名作を残しました。名探偵シャーロック・ホームズの生みの親、アーサー・コナン・ドイルがオカルトに傾倒し、コティングリー妖精事件に関わったのもこの頃です。
当時のイギリス人は妖精に大変な関心を持ち、若きダッドが描く、緻密な妖精画を絶賛しました。
アカデミー時代のダッドは同窓のウィリアム・パウエル・フリスやオーガスタス・エッグ、ヘンリー・オニールらとグループを結成し、精力的に創作活動に取り組んでいたと言われています。
特に影響を受けた画家はヨハン・ハインリヒ・フュースリー。
異形の夢魔がしどけなく眠る女性を弄ぶ『夢魔』は、倒錯したエロティシズムに満ちています。
エジプト旅行後に精神を病んで父親を惨殺
順風満帆な人生に影が差し始めたのは1842年、ダッド25歳の頃。当時の欧州では貴族やブルジョワの子弟が社会勉強を兼ね諸国漫遊する、グランドツアーと呼ばれるイベントが流行っていました。弁護士のサー・トーマス・フィリップがこのツアーの同伴者を募っているのを知るや、好奇心旺盛なダッドはすぐさま飛び付きます。
彼と共にヨーロッパや中東を回っていたダッドが精神を患ったのは、この年の12月頃と言われています。
当初は熱中症が原因ですぐ治ると思われていましたが、異常な言動はどんどんエスカレート。遂には「私はオシリスの使いだ。フィリップは悪霊に憑かれた。手遅れになる前に殺さねばならない」と、支離滅裂な譫言を口走りだします。
少し横道に逸れますが、オシリスとはエジプト神話における冥府の神で、植物の再生を神格化した存在に位置付けられます。その姿は古代エジプトの王冠を被り、全身を包帯でぐるぐる巻きにして王座に踏ん反り返る、緑の肌の男として描かれました。
中東のギラギラした太陽が精神を狂わせたのか、母方の血筋から継いだ精神病が発現したのか……絶えず幻覚や幻聴に苛まれ、虎視眈々と連れの殺害を企む不安定な様子は、明らかに統合失調症の兆しを見せていました。果てはローマ法王と悪魔の契約を疑い、ますます狂気に駆り立てられていきます。
後日イギリスに帰されたダッドは療養生活に入りますが、この頃から父子間の確執が表面化。1843年5月には正式に精神病の診断を受け、家族の勧めでト州郊外の田舎町・コブハムに移り住むものの、症状は一向に良くなりません。オシリスの亡霊はダッドの耳元で「悪魔を殺せ」と囁き続け、その矛先は最も身近な父に向けられました。
公園で散歩中に父親を殺害 べスレム精神病院送りに
当時のダッドの面倒を見ていたのは主に父親でした……が、前述したように両者の関係は良好とは言えず、1843年8月に恐れていた事件が起こります。ロバートとコバム公園を散歩していたダッドが、突如としてナイフを取り出し、父親を刺し殺してしまったのでした。
動機は「父の中の悪魔を追い出す為」。
ダッドは事件の少し前から悪魔がロバートになりすましていると信じ込み、四六時中ナイフを持ち歩いていたのです。
父の殺害後ダッドはフランスに逃亡するも、隠し持っていたカミソリで乗り合いバスの観光客に襲い掛かった現場を取り押さえられ、敢え無くイギリスに強制送還となりました。
精神病院で過ごした余生と傑作『お伽の樵の入神の一撃』の誕生
警察に逮捕されたのちイギリスに帰国したダッドは、王立べスレム病院(通称べドラム)の収監病棟に送られます。べドラムは「大騒ぎ」「混乱」「阿鼻叫喚」を意味する俗語で、ダッドと同じような統合失調患者や、様々な心の病気を患った人々が入院していました。
ダッドは主治医の治療方針に準じ、ここでも絵を描き続けました。幸い時間は無限にある上、無粋な輩に制作を邪魔される心配もありません。
皮肉なことにダッドの代表作の大半はべスレム病院で生み出され、以前にも増して世間の注目を集めました。
その一枚が1855年、ダッド38歳の時に制作が始まった『お伽の樵の入神の一撃』(原題『The Fairy Feller’s Master-Stroke』)。本作は胡桃割りに挑む妖精の木こり、ならびにその様子を十重二十重に取り巻く群衆を描いた絵で、当時の院長ジョージ・ヘンリー・ヘイドンの依頼品でした。ダッドの父がモデルのキャラクターも紛れ込んでおり、それが画面右上、乳鉢を抱え薬を調合する老人。現存する写真と見比べると、なるほどよく似ていますね。
ダッドは生涯父殺しの事実を否認し、「アレは父の姿を借りた悪魔だ」「私は正しいことをした」と主張し続けました。してみると絵を描く行為は、彼なりの贖罪だったのかもしれません。
なお『お伽の樵の入神の一撃』は制作に9年を費やしなお未完成のまま、死ぬまで加筆が続けられたそうです。常軌を逸したこだわりを感じますね。
普段のダッドは温厚で大人しく、日常生活を支障なく送り、医者や看護師にも慕われていました。懇意にしている看護師に直筆の肖像画を贈り、喜ばれた事もあったと言います。一方で感情の浮き沈みが激しく、一度妄想に囚われると完全に外界を遮断し、自分の殻に閉じこもってしまいました。
1864年7月には転院先のブロードムーア病院で結核に掛かり、68歳でひっそり他界。晩年まで創作意欲は衰えず、ブロードムーアの劇場に依頼され、タペストリーを描いた記録も残っています。
イギリスのロックバンドが歌い継ぐリチャード・ダッドの軌跡
ダッドの熱狂的ファンには有名人が数多くいます。その代表が『不思議の国のアリス』の作者、ルイス・キャロルことチャールズ・ドジソン。彼は『お伽の樵の入神の一撃』に犇めく妖精を一体一体数え上げ、総勢165人いることを確かめました。
妖精たちはそれぞれ個性や特徴を持ち、修道士・農夫・馬丁・夫婦者・教師・政治家・踊り子・仕立屋・泥棒と、巧みに描き分けられているのが見所。
現在は王立べスレム病院内のミュージアムに展示されているので、興味がある方はぜひ実物をご覧になってください。イギリスのロックバンド、「クイーン」の同名曲に想いを馳せるのも素敵ですね。
featured image:Henry Hering, Public domain, via Wikimedia Commons


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