知ってるようで案外知らない?!京都の怖い地名の由来

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皆さんは怖い地名と聞いて何を真っ先に思い浮かべますか?
嘗て大規模な土砂崩れが起きた斜面が大蛇の張った跡にちなんで「蛇抜」「蛇崩」と呼ばれたり、近代に入って「~丘」と改名された地区が危険なのは有名ですが、1200年の歴史を紡ぐ古都・京都にはそれと一線を画す、怪奇な伝承と紐付いた地名が沢山あります。
今回はそんな京都を代表する怖い地名の由来を、選りすぐりで解説していきたいと思います。

目次

風葬を願った皇后の遺言が由来「帷子ノ辻」

まず最初にご紹介するのが京都市北西部の帷子ノ辻。嵐電の駅にもなっているので利用した方も多そうですね。
帷子ノ辻の由来は嵯峨天皇の妻、壇林皇后の葬送の経緯にちなんでいます。
平安初期に実在した壇林皇后は優れた容姿を生まれ持ち、修行中の僧侶でさえ虜にしたと伝えられる絶世の美女。彼女はしょせん皮一枚に過ぎぬ己の見た目に惑わされ、修行を疎かにする仏弟子が絶えない現状を嘆いていました。

浮世に永遠不滅なものなどない、故に何ものも執着に値しないというのが終生一貫した皇后の考え。その教えを世の人々に広める為、自分の死後は遺体を埋葬せず野ざらしにし、鳥獣に食わせるようにと遺言しました。
彼女の死後、望み通り骸は打ち捨てられました。その場所が化野近くの帷子ノ辻。帷子とは当時の死に装束に当たる経帷子のことで、壇林皇后の遺体もこれを纏っていました。なおこの辺りは南へ戻る道が存在せず、片側のみに辻が分岐している為、「片平」を語源とする説も残っています。

生前は美しかった皇后の遺体は日に日に醜く腐り果て、飢えた野良犬やカラスの餌食となり、遂には大量の蛆を沸かせる骸骨と化しました。絶世の美女の変容を目の当たりにした人々は諸行無常を噛み締め、皇后に恋わずらった仏弟子は寺に戻っていったそうです。
皇后の没年が遺体の変遷を描いた「九相図」の流行時期と被っているのは偶然ではありません。実の所九相図のモデルは壇林皇后ではないかと言われているのです。

庶民の遺体は風葬が当然の平安時代も、貴人の葬儀は手厚く営まれ、死後は埋葬されるのが普通でした。九相図のモデルが高貴な女人である事実を踏まえれば、壇林皇后説は信憑性を帯びてきますね。皇后の遺体がここに放置されたのは、ちょうど辻にさしかかった所で経帷子が吹き飛ばされ、地面に舞い落ちたからとも言われています。
化野・鳥辺野・蓮台野は京都の三大風葬地。いずれも「野」が付いている共通項に注目してください。京都の人々は西の化野、東の鳥辺野、北の蓮台野とそれぞれ呼び分けていました。

化野の地名の由来は無常の野で、人の生の儚さを象徴する場所でもあります。八千体の無縁仏を祀る化野念仏寺が有名ですね。鳥辺野は鳥戸野や鳥部野とも書き、藤原道長や一条院皇后宮が荼毘に付された場所と記録されています。蓮台野ことデンデラノは極楽に住むお釈迦様の座所、蓮のうてなを指す地名でしょうか。
同様の地名は岩手県遠野をはじめ全国に点在し、姥捨て伝説が残っています。

笠を乗せた遺体が葬られた「衣笠山」 

風葬が主流の平安時代、貴族の葬儀の際は上等な棺桶が作られましたが、庶民の場合はどうでしょうか?洛外に運ばれた彼等の遺体は衣笠や絹かけで隠されました。これが衣笠山の由来です。古の日本人は山とあの世を同一視し、そこに遺体を葬っていました。

帷子ノ辻に程近い西院にも不吉な謂れが残っています。当時、ここより西側の地域は魑魅魍魎が跋扈する魔界として恐れられていました。その理由は鴨川と桂川の合流地点が賽の河原と混同され、西院(さい)の河原と呼ばれていた為。なんだ駄洒落かとガッカリするなかれ、昔の人々は地口で験を担いだのです。

賽は親不孝の罰として子供たちが積む石をさし、石塔が完成目前になると獄卒の鬼が壊しに来る為、永遠に成仏できないのでした。そんな悲惨な境遇を哀れんだのでしょうか、西院の河原で石を積む子供の霊のもとに高山寺のお地蔵様が現れ、彼等の魂を救済した伝説が語り継がれています。この言い伝えがもととなり、高山寺に詣でると子授けのご利益があると噂が広まりました。足利義政の妻・日野富子も高山寺の噂を信じ、はるばる子宝祈願をしに来た一人。
彼女の願いは叶い無事義尚が産まれたものの、後年養子の義視と跡目争いが勃発し、京都中を焼き尽くす応仁の乱の火蓋が切って落とされました。京都が滅びるきっかけになった、曰く付きの場所ですね。

不義密通の悲恋の果てに「赤池」は血に染まる

続いて紹介する赤池は悲恋の舞台となった場所。
現在の京都南インターチェンジ付近にあたります。
平安時代末期、北面武士の遠藤盛遠は美しい女性と惹かれ合いました。彼女の名前は袈裟御前・・・既に夫がいる身の人妻でした。

密かに逢瀬を重ねるうちに盛遠と相思相愛の仲になった袈裟御前。とはいえ離婚は許されません。切ない恋心は日に日に募り、思い余って「あなたの夫を殺すから俺と添い遂げてくれ」と懇願します。これを聞いた袈裟御前は哀しげに目を伏せ、「主人は東から二番目の部屋で寝ております。必ずとどめを刺してください」と返しました。

当日・・・世闇に乗じて愛人の屋敷に赴いた盛遠は、約束通り東から二番目の部屋に忍び込み、布団で寝ている人物の首を斬り落としました。それは袈裟御前でした。彼女は夫の身代わりになり、愛する人が自分を殺すように仕向けたのです。
放心状態の盛遠は最愛の人の生首を胸に抱き、近くの池で丁寧に洗いました。すると池の水はみるみる赤く濁り、赤池と呼ばれるようになったのでした。のちに盛遠は出家して文覚と名を改め、袈裟御前の供養に一生を捧げたそうです。夫に操を立てるか恋人をとるか、苦悩の果ての選択だったのが伝わってきますね。

女心は複雑です。あえて盛遠の手に掛かり、死ぬまで彼の記憶に残り続けようとしたのでしょうか。首の主を悟った瞬間の心情を想うとやりきれません。

源義経が大暴れした蹴上、卒塔婆が千本たたずむ「千本通」

鞍馬寺で天狗に武芸を習った快男児・源義経。現在でこそ源氏を勝利に導いた立役者として英雄視されていますが、若い頃は短気で喧嘩っ早く、無軌道な振る舞いが目立っていました。
義経が16歳になったある日の出来事。金商人・金売吉次に伴われ奥州平泉に発った彼は、九条山の坂道にさしかかると同時に、馬を駆り立てる平家の武士10人と行き会いました。

ここで思いがけぬトラブルが発生。二人とすれちがいざま馬の脚が水たまりに突っ込み、勢いよく蹴り上げたのです。
義経は旅装束に跳ね飛んだ泥水に怒って刀を抜き、即座に武士全員を斬り殺しました。
いかに源氏と平氏が敵対していたとはいえ、ちょっと水しぶきが掛かった位でここまでするか?と突っ込みたいですね。別の説では洛中で捕まった罪人の体を蹴り上げ、九条山の刑場に連行したことが由来と言われています。

鴨川沿いの三条河原も有名な刑場。ここに至る通りが縄手通りと称されるのは、文字通り罪人の両手を縛り上げて送ったから。
平安京の朱雀大路に当たり、南北にまっすぐ伸びた千本通には、嘗て千本の卒塔婆が犇めいていたそうです。
もともと朱雀大路は都の中心として機能する場所でした。しかし京都の西側・右京区は湿潤な沼地が多く開墾できず、結果的に東側の左京区ばかりに人家が偏って発展していきます。

平安中期には深刻な飢饉や疫病の蔓延、度重なる戦のせいで朱雀大路さえ荒廃を極め、死屍累々の風葬地に成り果てました。当時の光景を思い浮かべると、卒塔婆を建てて弔ってもらえた亡者はまだ幸せかもしれません。千本通を含めた一帯をさす紫野・紫竹の地名は、往来を埋め尽くす遺体が垂れ流す、腐った血の色に由来するそうです。

他にもまだまだある 京都の怖い地名

以上、京都の代表的な怖い地名を解説しました。ここでは紹介し切れませんでしたが、五條天神宮の境内に道を通した豊臣秀吉を皮肉る天使突抜、スサノオノミコトの荒魂を祀っていた悪王子町なども印象的ですね。
皆様もぜひ調べてみてください。

※画像はイメージです。

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