死体の腐敗過程を描写する〜平安時代の九相図と古の人々の死生観

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皆さんは平安初期から明治初期に掛けて流行った仏教絵画、九相図をご存じですか?
これは死体の腐敗過程を9段階に分けて克明に描写した絵で、芥見下々の人気漫画『呪術廻戦』の作中用語、呪胎九相図にも使われました。
今回は民草に諸行無常を教え広めた九相図に寄せて、人々の死生観の変遷を辿っていきたいと思います。

目次

九相図のモデルは嵯峨天皇の皇后 橘嘉智子

九相図(九想図)とは死体の変化を9段階に分けて描いた絵巻で、死後間もない頃から徐々に腐敗が進み、鳥獣に食われて白骨となる過程が記されています。『大智度論』及び『摩訶止観』は、死体の変遷を以下の9段階に分類しました。

脹相

腐敗ガスが発生して死体が内部から膨張する。

壊相

死体の腐乱が進んで皮膚が破れ、輪郭が崩れ始める。

血塗相

死体の腐敗による損壊がさらに進行し、溶解した脂肪・血液・体液が滲みだす。

膿爛相

死体自体が腐敗により溶解。

青瘀相

死体が青黒く変色する。

噉相

死体に虫が沸いて鳥獣の餌となる。

散相

以上の結果、死体の部位があちこちに散らばる。

骨相

血肉や皮脂が完全に溶けて白骨化する。

焼相

骨が砂塵と化して灰となる。

・・・・『呪術廻戦』で見知った名前の多さにニヤリとしませんか?

死体の変貌を眺めながら瞑想に耽ることを九相観といい、これは奈良時代に日本に伝来した、中国の死屍観想と根底で繋がっています。ブームの興りは平安初期で、この頃に多くの九相図が描かれました。余談ながら『摩訶止観』の止観は瞑想と同義で、「止」は心の動揺を止めて物事の本質を掴むこと、「観」は真理に即して物事を正しく観察することを指します。早い話が僧への戒めですね。
中でも有名なのが嵯峨天皇の皇后、橘嘉智子こと檀林皇后。

橘嘉智子は贈太政大臣・橘清友の娘として延暦5年に誕生し、弘仁6年に皇后に立てられ、嵯峨天皇に嫁いだのち檀林寺を創建します。絶世の美貌に類稀なる菩提心を併せ持った智子は、自分の姿に見とれ修行を疎かにする仏弟子の現状を憂い、「人の美醜は皮一枚 死ねばただ腐るのみ」と示すべく、死後は埋葬せずに都の辻に捨ててほしいと頼みました。

京都の地名・帷子辻が檀林皇后の帷子(かたびら)が落ちた場所に由来しているのは有名な話。他方では獣を飢えから救済する為、自ら血肉を施したとも伝わっています。
もともとこの辻は京都三大風葬地の一角・鳥辺野に程近く、あの世への入口として忌まれてきました。帷子は生絹や麻布で仕立てた夏用の単衣を指し、入棺時に着せる死装束・経帷子に通じます。
彼女をモデルにした『檀林皇后九相観』は、生前の祈願所だった桂光山西福寺に収められ、今なお参詣者に諸行無常を説いています。

平安美人の代表、小野小町も無残な姿に

九相図の題材となったのは檀林皇后だけではありません。平安時代を代表する才色兼備の女流歌人・小野小町も、九相図で無残極まる姿をさらしています。
小野小町は『古今和歌集』序文において六歌仙の一人に挙げられた女性。一説には井戸を介してこの世とあの世を行き来した小野篁の娘とされ、数々の男たちと浮名を流しました。クレオパトラや楊貴妃と並び世界三大美人に数えられているので、ご存じの方も多そうですね。

若き小町の魔性ぶりを示す、こんなエピソードがあります。
ある時のこと、小町は男に求婚されました。そこでからかい半分に「百夜通い続けたら契りを結んであげる」と告げた所、男は寒さの厳しい冬の夜道を徒歩(かち)で通い続け、念願成就を目前にした九十九夜目に凍死してしまったのです。『百人一首』には彼女が詠んだ歌、「花の色は 移りにけりな いたずらに わが身世にふる ながめせしまに」が収められています。これを訳すと「絶世の美人だなんだと持て囃されて調子に乗っていたら 長雨に打たれた桜のように あっというまに色褪せてしまいました」となり、容色の衰えを嘆く、孤独な老後が透けて見えるようです。

小町の晩年は能の演目『卒塔婆小町』にも取り上げられ、誰からも顧みられることない痛ましさを印象付けました。
『小野小町九相図』はそんな彼女をモデルにした九相図。天皇の崩御を機に放浪の旅に出た小町は、齢80歳の時に京都に戻り、如意山の補陀洛寺で行き倒れます。その遺体は野ざらしにされたまま白骨化し、髑髏の眼窩を貫くようにススキが生え、風が吹くたびに「ああ痛い」と叫んでいました。
『小野小町九相図』は宮廷で優雅に過ごす小町の青春期からスタートします。続く二枚目は臨終の場面、三枚目は風葬の場面で、野に打ち捨てられた遺体が骨へ変わり、跡地に石塔が建てられるまでを描いています。
注目してほしいのは二枚目以降の絵との甚だしい落差。

我が世の春を謳歌していた小町の肢体が歳月の経過に伴って腐りゆき、六枚目にして鳥に啄まれる描写には戦慄を禁じ得ず、ショックで吐いてしまった僧侶がいると聞いても驚きません。腐敗ガスが溜まった死体が下腹を中心に膨張したのち、全身の血膿が破れて萎縮する過程には、凄味を含んだリアリティーを感じました。
九相図の目的は仏弟子の煩悩を断ち切ることにあったので、絶世の美女と名高い小野小町や檀林皇后をモデルに選ぶのは、美醜の虚しさを教え込む上で有効と言えました。『小野小町九相図』は京都の住蓮山安楽寺に収蔵され、後世に生の儚さを伝えています。

九相図から発展した地獄絵・六道絵の魅力

九相図の本質を語る上で切り離せないのが、仏の教えを広める意図で用いられた地獄絵と六道絵。前者は罪人が堕ちる八大地獄の様相を描いたもの、後者は死後に輪廻する六道の様相を描いたもので、いずれも字の読み書きが出来ない平民に向け、勧善懲悪や諸行無常を説くために描かれました。中には九相図に地獄絵や六道絵を繋げたものもあり、一連の絵巻として完成に至っています。
芥川龍之介『地獄変』は地獄絵がテーマの短編。そのモチーフは『宇治拾遺物語』に収録された『絵仏師良秀 家の焼くるを見て悦ぶ事』で、大体8世紀頃を舞台にしています。

当時の貴族は九相図と共に地獄絵を好み、歳末の宮中行事・仏名会に寄せ、地獄変屏風を立てていました。平安後期には後白河上皇の命令で『地獄草紙』『餓鬼草紙』『病草紙』『辟邪絵』を含む六道絵が制作され、仏教の普及に乗じ、死後の世界への関心が高まっていたことが垣間見えます。
九相図も地獄絵も浮世の儚さを諭す主旨は同じ。戦乱が絶えぬ鎌倉時代には『九相図巻』と『人道不浄相図幅』が生まれ、室町時代には九相観を詠んだ漢詩や和歌を載せた『九相図絵巻』が成立。

ブームは明治になってもまだ続き、江戸末期の絵師・小林永濯は、名もなき遊女の死体が土に還るまでを描いた当世風九相図を発表。団扇を扇いで涼む婀娜っぽい遊女が亡くなったのち、供養もされず野犬の群れに食い荒らされる様は、その悲惨さと相俟って見る者の胸を打ちました。
生前相を先頭に置き、全十枚で構成される九相図が増えたのは江戸時代以降。生前の暮らしぶりを敢えて描くことで、以降の落差を強調するのが狙いだったのでしょうか?臨終場面は新死相と呼ばれ、これも後世に追加された説が有力です。

現代も人気を集める九相図

以上、おぞましさと美しさを兼ね備えた九相図の解説でした。現代も九相図の人気は根強く、角川ソフィア文庫から刊行された山本聡美『増補カラー版 九相図をよむ 朽ちてゆく死体の美術史』は順調に版を重ねています。

小林永濯の『遊女九相図』はYouTubeで動画化されているので、興味がある方はぜひご覧になってください。

featured image:匿名Unknown author, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由

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