私は幼い頃、山深い土地に住んでいました。
通っていた小学校は全校生徒が三十人ほどしかいない、典型的な過疎地の学校です。
土地柄なのか人間関係は濃密で、普段は仲がいいが、一度揉めると引くに引けず、意地の張り合いが長期化します。
それは大人だけではなく、子ども同士でもそれは同じでした。
小学五年生のとき、同じクラスのA君とB君が些細なことで喧嘩を初め、一週間以上も「弱虫」「意気地なし」と罵り合い。教師が止めても収まらず、周囲も完全にうんざりです。
そのとき六年生のガキ大将が割って入り、こう言うのです。
「そんなら、ぐんさんのところへ行ってこい」
おまじない
この地域には、子ども同士の揉め事がこじれた時に使われる「おまじない」がありました。
学校の裏山にある神社からさらに奥へ進むと、石碑に囲まれた小さなお堂があります。
当事者同士でそこまで行き、石碑に白い布を結ぶ。すると不思議と問題が解決するというのです。
子どもたちはそれを「ぐんさん」と呼んでいたのですが、なぜ「ぐんさん」と呼ばれているのか、由来を知る者はいなません。ただ、子どもたちの間では「怖い場所」「軽い気持ちで行ってはいけない場所」として共通認識があったのは確かです。
「ぐんさん」までの道のりは、思った以上に困難で、木々が密集し夏の昼間でも薄暗く、気をつけないと迷ってしまう細い獣道を進んでいきます。
A君とB君は、明らかに行きたくない顔をしていましたが、正直、ここまで来るなら先に仲直りしておけばよかった、という空気が漂ってましたが、ガキ大将のいわば命令なので後には引けません。
私は当事者ではありませんが、その年の神社の氏子総代が祖父だったので、「きちんと行ったかの確認役」として同行させられた。
背後の声
昼過ぎ、ガキ大将に睨まれながら、四人でぐんさんへ向かいますが、険悪な空気のままで誰も俯き、一言も喋る事なく黙々と山道を進んでいきました。
ようやくお堂に着き、白い布を石碑に結び終えた、その瞬間。
背後から、ガラガラとした男の声が響いたのです。
「おまんら、なにしよっとか!」
振り向くと、ヒゲをぼうぼうに生やした、見るからにいかつい中年の男が立っていました。
山で仕事の人にしては異様な感じがして、怒鳴り声がやけに響きます。
どう反応すればいいか分からず固まっていると、突然、地区のサイレンが鳴り出しました。
夕方六時を知らせる合図です。
それを聞いて、男は吐き捨てるように言った。
「空襲じゃき、はよ逃げ」
次の瞬間、誰かが「逃げろ!」と叫び、私たちは一斉に走り出しました。
途中でふと我に返って振り向いたのですが、先ほどまでそこにいたはずの男の姿は、見えなかったように思えたのです。でも無我夢中だったので、そう思えただけなのかもしれません。
ぐんさん
結果として、A君とB君の喧嘩は、その日を境に終わりました。
劇的に仲直りをしたわけではありませんが、罵り合いはなくなり、数日後には普通に会話を交わすようになっていたのです。でも、「ぐんさんに行ったから仲直りした」と口にする者はいません。
関わった全員が、その話題を意識的に避けているように感じました。
私が高校生になり、郷土史を調べる学習の中で、「ぐんさん」について知る機会がありました。
あのお堂と石碑は、地元から出征し、戦争で亡くなった人々を祀った慰霊碑だったようですが、地元の人々の間では、その意味も由来も忘れ去られ、慰霊碑であることすら忘れされられています。
白い布を結ぶことの意味については、今もよく分かっていません。
しかし、「空襲じゃき、逃げろ」という言葉の意味については、ある程度の想像がつきます。
夕方に鳴っていたサイレンは、かつて空襲警報として使用されていたものを、戦後に時報として転用したものらしい。
そう考えると、あの言葉の意味が、少しだけ分かったような気がするのです。
私は、あの男性が「空襲」と言ったことを、今でもはっきり覚えています。
でも、あの人物が幽霊だったのか、生きていた人間だったのかは分かりません。ただ、あの場所が戦争と深く結びついた土地であることは確かです。
それに、なぜ、そこが子ども同士の揉め事を解決する「おまじない」になったのか?
その理由を知る者は、もはやいません。
過疎化が進み、小学校はすでに取り壊されています。
仮に学校が残っていたとしても、本当の理由が解る事はないと思います。
※画像はイメージです。


思った事を何でも!ネガティブOK!