太平洋戦争下の日本の人体実験

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731部隊による人体実験は有名で、多くの人が詳細はともかくその名を耳にしたことがあるはずだ。
一方で太平洋戦争下、いくつかの部隊で人体実験が行われていたことはご存知だろうか?

今回は731部隊のあまりに濃すぎる闇に隠れた、戦時下の日本の人体実験にスポットをあてたい。

目次

医学の探求の果てに8人死亡…九大生体解剖実験

敗戦直前の九州に2機のアメリカ軍機が墜落する。
捕虜として捕らえられたアメリカ兵らを待ち受けていたのは、収容所でも裁判でもない。
白衣に身を包んだ者たちの冷たい手術台だった。

軍の命令と医師らの医学への探求という欲望が絡み合い、8名にとっての最悪の結末が始まる。

事件のきっかけ~アメリカ軍捕虜

日本必敗の色が濃くなり始めた太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)5月5日、九州各地を爆撃したアメリカ軍のB-29がグアムへの帰路で日本海軍航空隊に迎撃され、2機が墜落する。

1機は撃墜の果て、搭乗員11名が熊本県の阿蘇山周辺に落下傘で降下したものの、うち1名は機銃掃射で死亡、2名が降下した先の地元住民らに虐殺され、1名が自決する。
そしてもう1機は執拗な攻撃を受け、抵抗空しく豊後水道に墜落。

搭乗員11名中5名が宮崎県の延岡市付近に降下した。
その後、1機目に搭乗していた機長が事情聴取のため、東京に移送されたものの、残る2機計10名のアメリカ軍兵士が捕虜として、当時、中国・四国・九州地方の防衛を担っていた西部軍の預かりとなる。

これが彼ら10名の悪夢の始まりだった。

西部軍と九州帝国大学

さて、西部軍はこうして情報を取れないような、いわばお荷物の捕虜を押し付けられたことになる。
この戦時下にあっても捕虜に対して人道的な扱いをしなければならない、と国際的に一応定められていたのだが、捕虜の扱いに苦慮した西部軍は裁判や人道的配慮などなしに、10名の捕虜を死刑とすることを決めてしまう。

一方、当時の西部軍関係者の中に「捕虜を処刑するくらいなら軍医学に役立て有効活用すべきだ」という意見を持つ小森軍医(見習士官だったという説もある)という男がいた。
特に戦争末期、沖縄・奄美が陥落すれば、対連合国軍の本土決戦の入口は九州となる可能性が高かった。

そういった意味でも西部軍は本土決戦の最前面の部隊として、日本本土の留守を預かる他の部隊に比べて危機意識が高かったようだ。
そうした中で戦争に役立つ「武器」であればいくらでも手に入れておきたい、という渇望があったようにも思える。
そしてその武器の1つが「人体の情報」というわけだ。

この軍医と当時の西部軍大佐・佐藤は佐藤の治療を通じて親交のある間柄だった。
小森軍医は死刑になる捕虜の存在を知ると、佐藤大佐に「自分に捕虜の扱いを任せてくれないか」と依頼。
佐藤大佐はこの依頼を了承した。

一方の九州・福岡に構える九州帝国大学(現・九州大学、以下、九大)。
九大も他の帝国大学に漏れず、軍との関係が深い大学で、学徒出陣、勤労動員への協力はもちろんのこと、医学部からはあの悪魔の部隊、731部隊にも医者や研究者を派遣していた。

そんな九大の医学部に石山という外科の医師がいた。
同僚によれば、彼は研究熱心な人物だったという。
研究熱心とは、医師として研究者として、素晴らしい側面なのだろう。
この研究熱心さ故なのか、人望があったのか、石山教授は学部内でよく言えばカリスマ、少々口悪く言わば、独裁者のような存在だったそうだ。

学部内で権力を持ち、自らの研究分野への探求心も篤い医師。
この一面はその後、良からぬ方向に石山教授本人を導いていくことになる。

軍の思惑、大学の探求

小森軍医は石山教授の教え子だったとされている。
小森軍医は捕虜の「治療」について石山教授に相談。
当初、石山教授は、帝国大学病院内に外国軍人の治療に関する取り扱い規定がないことを理由にはじめは強い難色を示していたようだ。
しかし最終的には、西部軍司令部は捕虜10名のうち、8名を九大に移送することを決定する。
(なお、残り2名は本件以外の捕虜と共に斬首刑となった。)

ここで胆となっているのが。軍が決めたことはあくまで「捕虜を大学に引き渡す」ことだけだったという点だ。

ここからは軍の思惑や大学側の意思決定の変遷を裏付ける資料がないため、想像になるが、最初の軍からの打診について、石山教授は「軍から捕虜の治療」を依頼されたと受け取ったのだろう。
あるいは、はじめから生体解剖実験について匂わされていたものの、医師としての倫理観から大学の規定を理由に断ったのかもしれない。

だが、結局は石山教授は軍からの決定を受け入れることになる。
時代背景を考えれば、軍の命令に大学が逆らえる余地もなかっただろう。
そして大学側とて、払い下げられた治療をしない敵国捕虜をのうのうと生かしておく義理はない。
さらに石山教授の医学への探求心や鬼畜米兵への嫌悪などが一縷とも滲まなかったとは言い切れない。

こうして西部軍の責任逃れにも見える、半ば強制的なやり口で、軍は捕虜を引き渡し、大学による捕虜人体実験の実施が決まった。
軍と医者が倫理観を捨て、悪魔に魂を売ることを決めた瞬間だった。

捕虜引き渡し、悪夢の実験のスタート

こうして8名の捕虜は次々に大学病院へと移送される。
自身らの移送先が病院だと知った捕虜たちは、健康診断や本格的な治療を受けれられると思い、さぞかし安堵しただろう。
中には院内の処置室へ入っていく際、(実際には解剖室であったが)お礼を言う捕虜までいたそうだ。

「サンキュー」

この言葉が自身の最期の言葉になるなど、捕虜たちは想像もしなかっただろう。

実験は石山教授指揮の元、他の医師や看護師、医学生らの手によって1945年の5月から6月にかけて、数回に分けて実施された。なお、大学関係者以外にも実験に際しては軍からも実験の監視要員や部屋の見張りが派遣されており、命令として明記しなかったものの、軍もこの人体実験を認めていたことは明らかだ。

実験の内容は、石山教授の専門である外科的実験を中心とした実におぞましいものだった。
薬物治療研究が中心であった結核への外科的アプローチができないか、と片肺を切り取ってみる。
臓器や神経を切除するとどうなるのかという疑問解決のため、内臓を本当に切ってみる。
代替血液の発見・技術発展を目指し、血液の代わりに海水や動物の血液を輸血してみる。
まさにやりたい放題だ。

もしもこれらの実験が本当に医学の進歩を目的とするなら継続的、かつ多人数での実験が必要なはずだ。
しかし今回はたまたま捕虜という人体実験対象が大学に回ってきたに過ぎない。
731部隊には常に人体実験対象である「マルタ」が供給されてきたように、継続的に被実験対象が大学やってくるわけではない。

こういった事情を鑑みても、この生体実験が必ずしも医学や医療技術の進歩のために行われたわけでなく、医師たちの興味の探求のために行われた実験であることは明白と言えるだろう。

この悲劇的な実験の結果、捕虜8名は全員死亡した。

裁判の行方

1945年夏、日本は敗戦。

戦犯たちを招集しての戦争裁判が始まり、当然この九大生体解剖事件も裁かれるべき対象として、25人の関係者が集められた。
しかし、この事件の根幹を握っていたはずの小森軍医は福岡大空襲で焼夷弾の直撃を受け、すでに死亡。

そして石山教授は収監された独房内で妻への感謝、人体実験に関係した同僚や助手らが無実である旨の訴え、そして「一切は軍の命令、責任は全て余にあり」の遺書を残し、自殺した。

事件関係者の中でも核心を知っていたはずの2人が死亡したことにより、本当の意味での事件の解明は難しくなった中、1948年8月、横浜のBC戦犯裁判において、軍関係者や立ち会った医師、学生ら18人が有罪。
西部軍関係者である佐藤吉直大佐、横山勇中将、九大関係者である鳥巣太郎第一外科助教授、平尾健一第一外科助教授、森好良雄第一外科講師の5人が絞首刑とされた。

正当な手続きもないままに捕虜を戦犯と断じた点、遠回しに言って回復可能性の低い手術を行った点、そして死者の埋葬を怠った点などが重く判断された結果だった。

九大生体解剖事件を題材にした遠藤周作「海と毒薬」

さて、芥川賞作家でもである、遠藤周作の代表作の1つに「海と毒薬」という作品がある。
主人公の一人である若い医師は病院内での立場や研究成果を優先するあまり、徐々に1人の医師として患者に向き合うよりも、病院組織の論理に従うようになっていく。

また、医師の同僚や先輩らも軍や大学組織の圧力を言い訳にして、軍から要請された捕虜の解剖実験に手を染めてしまう。さらに補佐として実験を見守った医学生も傍観者としての共犯意識に苦しむことになる。やがて病院は「止められない」「逆らえない」という空気に支配されることになる。

捕虜の生体解剖という戦争犯罪を「特別な悪人の行為」ではなく、キリスト教的(遠藤氏は思春期の頃からキリスト教を崇拝している)な視点から「弱さを抱える人間の罪」について考える、というお話だ。

数々の賞を受賞し、映画化もされた本作、言わずもがな九大生体解剖事件を題材としている。

ここからは個人的な解釈になるが、海と毒薬の中で遠藤氏は、戦時とそうでないとに関わらず、この事件が誰にでも起こりうる事態として、そのような状況に直面した時、私たちはどうするかを考えさせる物語なのだと思う。
物語の中でも明確な解答は明示されていないと私は思っているのだが、現実世界ではどうすればこの事件を防ぐことができたのだろうか。

小森軍医が捕虜の有意義な利用について思いを巡らせなければ、石山教授が生体解剖実験について了承しなければ、実験を止める誰かの一言があれば事態は変わったのかもしれない。
ただ、そのどれもがなされなかったことにこの事件の本質があるのだろう。

人肉食のうわさ

さて、横浜で開かれたBC戦犯裁判において、九大生体解剖事件に絡み、ある疑惑が裁きに掛けられることになった。
それが人肉食疑惑だ。

話の発端は生体解剖実験の内容の1つ、臓器摘出で取り出された内臓の行方だ。
裁判によれば、実験で摘出された捕虜の肝臓を小森軍医が偕行社(現・公益財団法人陸修偕行社。大日本帝国陸軍時代における元将校・士官候補生・将校生徒・軍属高等官の親睦組織)病院に持ち込み、そこにいた5名の軍関係者や出入りの民間人らと共に楽しく食したというセンセーショナルな話だった。

もしこれが事実なら、医学の向上という建前があった生体実験を超える鬼畜の所業と言えただろう。
しかし、この疑惑については裁判の中で事実無根と判断された。

どうやら裁判前に事件を調べた調査官らの高圧的な追及に屈し、作り上げられたストーリーをそのまま認めたものが起訴内容として採用されたらしい。
裁判中、戦犯容疑者、そして証人らによる一貫した強い訴えもあり、この疑惑で起訴された5名は無罪となった。

ただし、食べて腹に入れてしまえば証拠は残らない。
人肉を食べたのか食べなかったのか、本当の真実は神のみぞ知るわけだ。

73部隊と張り合う海軍の行く末は…トラック島事件

太平洋上に浮かぶミクロネシア連邦のチューク諸島。
今でこそ、青く澄んだ海と豊かな珊瑚礁に囲まれる美しい南洋の島であるが、第二次世界大戦中はトラック島と呼ばれ、激戦の舞台となった。

この日本から遠く離れた南の島で、海軍はあの悪魔の部隊に触発され、狂気の領域に足を踏み入れる。

海軍の要衝、トラック島

第二次世界大戦下、トラック島は海軍の最重要ともいえる前線拠点だった。
広大な環礁に守られ、対米戦略において地理的利点も大きかったこの島は太平洋のジブラルタルとも呼ばれ、1943年頃には連合艦隊の主力艦艇が集結。
南方作戦の出撃拠点や補給基地として機能し、兵員・弾薬・燃料が大量に備蓄されており、まさに大日本帝国海軍の心臓部だった。

島内には現地住民をいたものの、軍人を始めとする多くの日本人が入植し、病院や学校に映画館、果ては海軍将校向けの料亭も作られ、さながら日本人街の雰囲気もあったという。

1944年頃に戦局が次第に連合国側に傾くと、トラック島の状況は急速に悪化していく。

2月にはアメリカ軍の大規模空襲に見舞われ、多数の軍艦や航空機は壊滅的な打撃を受けてしまう。
そして期を同じくして、海軍は悪魔の所業に手を染めていくことになる。

きっかけは731部隊

戦況悪化著しい1944年、海軍にとって我慢ならない出来事が起こる。

この頃、大日本帝国陸軍の総軍の1つで満州一帯の守備を任されていた関東軍の防疫給水部、いわゆる731部隊が現地で積み重ねてきた人体実験を研究結果としてまとめて発表しはじめたのだ。
有名な“陸軍悪玉・海軍善玉論”(もちろん、そう単純な話ではないと思うが)の中でも語られるように、戦略や戦争の考え方が陸軍と海軍では大きく異なっており、協調路線がとられることは終戦までほぼなかった。

端的に言ってしまえば仲が悪い。
互いがライバルのような関係性だった。

そのような緊張感のある関係の中で、医学分野において陸軍が一歩抜きんでたことは海軍にとってさぞや腸煮えくりかえる状況だったことだろう。
海軍本部はこの731部隊の成果に触発され、自身らも人体の医学的研究―人体実験に手を染めることを決める。

繰り返された人体実験

トラック島で初めて行われた人体実験は、判明している限り1944年1月に行われた捕虜8名に対する実験だ。

軍医官らは4名に対して、血液に入り込むと敗血症を引き起こすブドウ球菌を注射する実験、他、4名に対し、大量出血を食い止めるために使用される止血帯を長時間当て続けると、血流を止めた先の四肢がどのように壊死していくか、神経にどういった影響が及ぶか検証する実験を行った。

731部隊と言えばペストを始めとする細菌研究が有名だが、それに対抗するようにブドウ球菌研究に手を出している点を鑑みれば、陸軍への対抗意識が感じられる一方、731部隊の二番煎じ感も否めない。
細菌研究の果てに細菌兵器実用化を目標としていたが、海軍は人体実験の果てに何を目指していたのかもはっきりとは分かっていない。

なににおいても同意なき生体事件が悪行であることは確かなのだが、目的もなく海軍の見栄のために生体実験に利用されたのだとしたら、犠牲になった捕虜は殊更に哀れだ。

ブドウ球菌注射実験の果てに4名全員が死亡。

止血帯実験対象だった4名のうち2名は幸いにも一命を取り留めたものの、その後ダイナマイトの爆風にさらす爆風実験に利用された。
しかもそのような過酷な実験でも生き残り、最期に殺害され結果8名全員が死亡した。
死亡した捕虜のうち4名の頭蓋骨は標本にされ、後に海軍軍医学校に送られたいという。
海軍本部の命令を忠実に遂行した研究の成果ということだったのだろう。

その後も捕虜に対する人体事件は断続的に続き、軍医官らによる生体解剖実験はもちろん、下士官らによる槍や銃剣を用いての実験と称した刺殺も相次いだ。
ただ、これらの非道な実験の結果、どのような研究成果が掴めたのかは最後まで分からなかった。

人体実験の証拠隠滅

人体実験を重ねる最中、トラック島の戦況はアメリカ軍のヘイルストーン作戦によって大きく悪化する。

1944年2月17日、同作戦によってトラック島は大規模空襲を受けたことにより、数多の戦艦が沈没、または航行不能状態に陥り、港湾施設や燃料・備蓄品なども焼き払われ、海軍は大きな打撃を受ける。
海軍自慢の要塞は拠点としての価値を失うことになってしまったのだ。

その後、アメリカ軍が太平洋沖の拠点を飛び石で制圧するアイランドホッピング作戦を展開したため、トラック島は孤立。物資の補給線を断たれてしまったため、島に残された人々は飢餓と病による苦しみの果てに多くの人が亡くなっていった。

1945年8月の日本降伏と共にトラック島も終戦を迎えることになる。
この敗戦で慌てたのが、人体実験に関わった者たちだ。
捕虜を人体実験に利用した事実が発覚すれば、戦争裁判で責任を相応なる罰を受けることは明白だ。

人体実験の関係者は各種の人体実験や捕虜殺害を隠蔽するため、実験後土に埋めていた捕虜の遺体をわざわざ掘り起こし、海に捨てた。
まさに隠すにはうってつけの場所だろう。
そして関係者や下々の者に箝口令を敷き、なんとか実験の事実を封じ込めを諮った。

さらに人々の口を封じた上で、万が一人体実験の事実が連合国軍側に発覚した場合、首謀者をすでに戦死していた軍医官に肩代わりさせることも話し合われていたというから念入りだった。
ただ、すべての人間の口に立札を掲げることは不可能だった。
捕虜の生き残りの証言をもとに、人体実験の事実は露見してしまう。

明暗を分けた裁判の結果

トラック島で行われた生体解剖実験が明るみに出た結果、関係者は逮捕されアメリカ海軍の手で裁かれることになった。
裁判では行われた実験ごとに罪が争われ、途中、自殺した容疑者もいたものの、結果3人が絞首刑の判決を受ける。

亡くなった人数の規模を考えれば、トラック島で実験モルモットになった人数より、満州でベルトコンベアー式に殺害されていったマルタたちの数の方が圧倒的に多いのだが、海軍は裁かれ、731部隊は誰も裁かれることなく今日に至る。

これは731部隊が実験の結果が連合国軍側、特にアメリカにとって有意義であり、他国の目に晒されたくなかったこと。そして実験における犠牲者の中に、連合国軍側の人間が確認できなかったことが大きな要因だろう。

大人数を殺せば死刑、あるいは最高刑が科される。
恐らくは大多数の国で平時に採用される仕組みだと思うのだが、戦争という状況にあってはそうではない。
強制的人体実験という暴挙の果てに何が得られたか。

トラック島の海軍と731部隊の最後の明暗を分けたのはその部分だったのだろう。
裁判において絞首刑を宣告された首謀者の1人、海軍第4艦隊所属第4病院院長の岩波という男は、ほとんどの実験において自身の関与を否定。

途中で戦死したり、戦後自殺した同僚らに罪を被せようとした。
もしも731部隊の根幹であった石井四郎が裁判の場に立つことがあれば、どのように振舞ったのだろうか。
歴史にもしもはないが、もし731部隊が公に裁かれることがあれば、彼らの人間の本質、そして戦争犯罪の本質がまた違った形で垣間見えたのかもしれない。

私たちは何を反省すべきか

戦時下、731部隊以外でも数多く行われた人体実験。
普段は善良であるはずの人間、もっと言えば人を救う使命をもった医師たちがなぜこのような悪行に手を染めてしまうのか。
多くの場合、結びとして使われるのは「時代がそうさせた」という言葉だ。
たしかに、戦争とは多くの人にとって強制的で、当人の善悪の価値は無視され、抗うことは決して許されない状況なのだろう。

総じて短い言葉にまとめてしまえば、まさしく時代がそうさせたのであろうが、実験を行った当人たち以外が使う言葉としては、些か反省が足りない気がするので、この言葉の意味するところをもう少し掘り下げて考えてみたい。

軍から生体実験を命じられた際、もちろんその命令に背くことはできない。
抵抗した人が決していなかったわけではなかったであろう。
当然抵抗した人々はなんらかの罰を受けたり、集団から追いやられたりして孤立していき、結果命令を聞く人間だけが集団に残っていく。

また、戦争とは本来は平等であるはずの人間に勝者と敗者、味方と敵、占領する者とされる者といったラベリングをすることでもあり、戦争という価値観は敗者を、敵を、占領下の者を自分より下等な人間だと意識させる。

実験対象が敵国の捕虜であったり、占領下の見下している人間であることが実験を行うことへの罪悪感のハードルを下げるのだろう。
例えば親類や友人を敵国に殺された恨み、戦時とに関わらず研究者として持っている探求心や野心に名誉への渇望、さらに「周りのみんなもやっている」、「誰も止めないわけだから」というゆるやかで後ろ暗い同調圧力。

軍の命令に背き、医師としての生命に対する倫理観を押し通すには、恐ろしく強い鋼の意思が必要になったことだろう。ただ、このような状況はなにも戦時下だけに留まらないのではないだろうか。
病院や研究機関という閉鎖的な環境、他者とは違った倫理観をもつ強い権力者、被験者に対する差別意識。
戦争の有無に関わらず、条件が揃ってしまえば九大生体解剖事件やトラック島事件のようなおぞましい人体実験は現代社会においても起こり得るのではないだろうか。

戦後、裁判を前に自殺した九大生体解剖事件の首謀者であった石山教授の遺書の中に、家族や研究仲間、弟子に対する謝罪の意思はあっても、被害者となった捕虜たちへの謝罪の言葉はなかったそうだ。

人々をこのような凶行に走らせるのは本当に戦争という時代の意思だけだったのだろうか。
九大生体解剖事件やトラック島事件は戦時に起きた恐ろしい事件というだけでない、人間の根源が引き起こす恐怖を物語っている気がする。

参考文献
日本健康学会誌第86巻第5号
戦争医学の汚辱にふれ 青空文庫/平光吾一

※画像はイメージです。

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