「おいしい」はオカルト説

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令和の米騒動で、備蓄米が放出されたが、その評価は様々である。
臭くて食べられない、という人から、工夫すれば大丈夫という人、普段の米との差を感じられないという人もいる。

そもそも、備蓄米というカテゴリ自体が広すぎるのだから、品質も様々だろうという部分を差し引いても、あまりに統一性がない。
この統一感のなさは、何かに似ていないだろうか。
そう、超常現象に対する反応である。

目次

「おいしい」とオカルトの類似点

超常現象は・・・

  • 霊からサイキック、悪魔の仕業、神の奇跡、異星人の超科学に至るまで、原因が様々
  • 人によって感受性(霊感など)が異なる
  • 客観的に表現が困難で、再現性が乏しい
  • 科学的な要素もあるがノイズが多く、最終的な判断は主観になる

味は・・・

  • 素材の状態や料理方法、提供の仕方、作った人への好感度、食べる人の体調、精神状態など、原因が様々
  • 人によって味や香りの感受性、好みなどが異なる
  • 客観的に表現が困難で、シチュエーションや体調なども含めると再現性は極めて低い
  • 味覚センサーなど科学的な要素はあるが、最終的な「おいしい」は主観になる

このような類似点がある。

かの食通、北大路魯山人にしてからが「美味く食べさせる」事について、「幼児か成年か老年か、富者か貧者か、まず過去の生活を知ってかかるべき」とまで言っており、「絶対的な美食」を提示するような事はない。
素直に「おいしい」とは言わない「半可通」に対しては、相手の(狭い知識で)好みそうな(それっぽい)産地の素材などを持ち出して「能書き付きで美味く喰う」といった小技まで述べている。

これは、食通ならざる我々でも、実感が持てる事ではなかろうか。
我らは少なくとも今の段階では、味が何かしら科学的に明らかにされた現象であるというナイーブな考え方は捨てるべきではなかろうか。

好きな人も嫌いな人もいる

料理人を責める愚行

ここは素直な気持ちになって、味覚をオカルトに戻した方が良いだろう。
オカルトはちょい置きの棚のようなものだ。科学ではっきりしない分を後で分析するために置いておく、その姿勢で良い。

そう解釈して、改めて今日の食事の味に付いて考えてみよう。
今日の食事がおいしかったとして、それは何かしら不可思議な力が作用すると考える。
それはあなたがある程度信仰する神仏や祖霊、精霊などの加護でも良いし、作った人の思念のようなものでも良い、あなたの側の念力や生命力の発露としても良い。

これらの結果としてあなたが「おいしい」と感じたとすれば、それを再現するのは難しい事であり、おいしい事自体が奇跡的なものと感じられるだろう。
逆に食事がどうにも「まずい」と感じる時、作った人にばかり文句を言うのは見当違いだ。

調理する人、日々の暮らしの中であなたに向けられる思念、星の巡り、あなたのその時の体調、今日の出来事からくる悩み、同行者との関係などなど、そういった大小の他力が働いている可能性がある。
こうなれば、短絡的に「こんなものはまずくて喰えない」と口にする出来まい。
改められる事は改め、生活を正し、心身を整えれば、全く同じ筈の食べ物が、おいしく食べられる可能性はある。
そして、自分がまずいと思うものを、おいしいと食べられる人に対し、「味の分からないヤツ」と見下すような気持ちも薄まるのではなかろうか。

何しろ、その見下した経験は、その食べ物に対する先入観を作り上げ、「まずい」の幅を増やしてしまう。

事を幸せにするオカルト

もちろん、料理の理はあるだろう。だが、それがコントロール出来るのは、ごく一部、科学の部分だけだ。
うまいまずいの部分は、大半がオカルトである。

日々の食事に何となく不満を感じている場合、そんな風に認識を変えてみてはどうだろう。
その感覚に立つ時、先の備蓄米でうまいのまずいのと言い合う不毛さにも、それを読んで心惑わされる事の無意味さにも気付けるだろう。

あなたが「食べられる」「おいしい」と認知したなら、その瞬間の食卓にはそれに足りるものがある。
その事実から始めるべきだろう。

参考
・青空文庫「道は次第に狭し」(北大路魯山人)No.54984

※画像はイメージです。

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