2024年の日本の自殺者数は2万人を超えている。
人間関係や健康、経済状況など悩みの尽きない私たちの生活の中に、時に魅力的な解決手段として自死が入り込んできてしまうことを如実に示す数字だろう。
本来、死ぬときは1人であるし大規模な災害で原因でもない限り、死のタイミングは人それぞれのはずだが、時になにかに導かれるように次々に人々が死を選んでしまうことがある。
昭和の初頭、ある2人の女学生の死をきっかけに多くの人々が自殺の道を歩んだ事件があった。
きっかけは親友からの「お願い」
「ね、お願い、私とも一緒に三原山に登ってちょうだい、でないと・・・」
この秘密を皆にバラす。
1933年2月12日、1人の女性が伊豆大島の三原山山頂でふわりと身を投げ、泳ぐように火口に吸い込まれていった。
紫色の着物を陽光になびかせた実に優美な投身自殺だったという。
その衝撃の様子を偶然男性が目撃しており、火口付近に急行。
彼はそこで茫然自失としている1人の女性を発見する。
彼女の名前は晶子(21歳)。
東京の女学校に通っており、船でこの地を訪れていた。
男性と共に下山し、警察に保護された晶子はぽつぽつと山頂で何があったのかを語り始め、そこで周囲を驚かせる言葉を口にする。
彼女が三原山山頂を訪れたのは2度目で、その時も友人1名と一緒だったが1人で家に帰った。
その友人はおそらく。
晶子は2度にわたり、友人を死地へと送り届けていたというのだ。
1人目の身投げ
晶子と最初に三原山へ向かったのは枝里子という女学生だった。
枝里子と晶子は同じ女学校に通っており、枝里子の方が1学年上、3つほど年上のお姉さんだった。
かねてから病気がちであった枝里子は晶子に「三原山で死にたい。だが1人では怪しまれるから、一緒に来てほしい」と乞うた。
この時、晶子がなぜ枝里子の頼みを承諾したのか、詳しくは本人のみぞ知るところである。
実際に三原山まで足を運べば、枝里子も満足するだろうという甘い見通しがあったのかもしれない。
あるいは断ることが許されない、2人の間でしか理解し合えない、なにか事情があったのかもしれいない。
結局、晶子は枝里子の申し出をどうしても断れず、1933年1月8日、2人は三原山の火口までやってきた。
枝里子は山頂に辿り着いたところで「このことは5年間誰にも言わないで」と晶子に強く念押しすると、先に下山するように頼んだ。
枝里子の言う通りに晶子は下山し日常へと帰って行ったが、その後、枝里子が晶子達の前に現れることはなかった。
なぜ彼女は死の案内人になったのか
戻らなかった枝里子、そしてそこに至った経緯を考えれば枝里子は自殺したに違いない。
恐らく晶子はこの現実に打ちのめされただろう。
親しかった人間が死んでしまったという事実と、結果的にその自殺の手助けを自分がしてしまったという状況、そして枝里子に強いられた「5年間は誰にも話してはいけない」というもはや呪いと言ってもいい約束。
1人で心にしまい込んでおくにはあまりに衝撃的な出来事は、晶子を大いに苦しめたはずだ。
そんな晶子の友人の1人に、同じ学校に通う華代という同じ年の女性がいた。
母親や慕っていた姉を相次いで亡くしたせいか、華代は希死念慮が強かったようである。
万葉集(万葉集には挽歌と呼ばれる人の死を悼む歌が多数掲載されている)を愛読し、「自分の気にいった歌が1つできたら、いつ死んでもいい」と周囲に語るなど、日頃から危なっかしいところがある女性だったようだ。
そんな華代は1932年10月、学友らと三原山に登ったことがあり、その雄大な景色を見て「三原山の煙を見たら私の位牌と思ってください」とまるでなにかに取り憑かれたように話していたという。
彼女の中にあった死のイメージが三原山を通して、現実的なものとなったのだろう。
三原山での死というものに対して重大な秘密を抱える晶子と、三原山での死を夢見る華代。
生を善とするならば、2人は最悪の組み合わせだった。
あまりに三原山を賛美する華代に、ついに約束を守り切ることができず、晶子は枝里子のことを話してしまった。
三原山での死を望む華代はこの話に沸き立った。
そして彼女にとってのチャンスを決して逃さないよう、晶子に再びの死の立会人を頼んだのだ。
「枝里子さんはよくてどうして私は嫌なの」。
「ね、お願い、私とも一緒に三原山に登ってちょうだい、でないと・・・」。
依頼とは言ったが晶子にとってはほぼ恫喝であり、強制と言っても過言ではなかっただろう。
こうして晶子は学友を2人も死地へと導いた死の案内人をなってしまったのだ。
センセーショナルな報道合戦
うら若き女学生が2人も火山口で投身自殺。
その自殺には地獄への水先案内人のごとく立ち会った者がおり、しかもそのような恐ろしい役目を負ったのもまた、女学生。
まるで耽美な物語のような出来事が、実際に起こってしまった。
このスクープをマスメディアは放っておかなかった。
プライバシーだの肖像権だのといったものは一切ない。
新聞などには平然と顔写真や通っていいた学校名、家の住所までもが掲載され、晶子の名や顔は死を誘う女として世間に瞬く間に知れ渡ってしまう。
特にマスコミの論調が、友人らの自殺を止められなかったばかりか共に三原山へ向かい、自殺を後押しするような格好になってしまった晶子をバッシングするものになると、世間もその意見に同調し彼女を責めた。
学校に通うこともできず、外に出ることもできない晶子は東京から郷里の埼玉に居を移し、息を潜めるような生活を余儀なくされたのだ。
自殺ほう助
結果的に晶子は友人2人を死地へと誘ったわけだが、彼女の行いは罪に問われるのだろうか。
恐らく多くの人が気になるのが、晶子の行動が「自殺ほう助」にあたるのではないかということだろう。
自殺ほう助とは、簡単に言ってしまえば自殺を手助けする行為のことだ。
法律では、自殺関与及び同意殺人として、刑法第202条に「人を教唆し若しくは幇助して自殺させ、又は人をその嘱託を受け若しくはその承諾を得て殺した者は、6月以上7年以下の拘禁刑に処する。」と規定されている。
さて、筆者は法律の専門家ではないのであくまで私見になるが、晶子の行いが罪になるか考えてみよう。
刑法の条文内に「自殺の手助け」とあるが、いくつか事件の判例を見てみると、「2人で自殺を図り、練炭や七輪、目張りされたテントなどの準備を整えて自殺を試みたが1人だけが死亡し、片一方は生き残った」、「自殺用の縄を用意し、鉄棒にその縄を首が括れるように設置、その縄に自殺志望者の首をかけてやった」などがある。
つまり、自殺ほう助が認められる要件として、該当の者が自殺を明確に希望し、自殺に使用する道具や環境を用意してやったり、自殺志望者が無事に本懐を遂げられるよう、死に至る行動を積極的に後押ししてやらなければならない。
このことを踏まえて晶子の行動を振り返ってみると、彼女は友人2人が自殺を希望していることをある程度は把握していたし、たしかに晶子が一緒に三原山に行ってくれたおかげで、2人の自殺志願者たちは勇気づけられたかもしれない。
しかし、1人目の枝里子の自殺の決意がどれほどのものか、晶子としても計りあぐねている部分もあったり、2人目の華代の自殺については枝里子の自殺の負い目から、ほぼ無理矢理同行させられていた。
事件当時は三原山山頂までの道中で、2人の自殺を思いとどまらせることが出来なかった、と評したマスコミもあったようだが、自殺を止められなかったことを罪とするなら、現在年間20,000人ほどが自殺するこの国で、日本中罪人だらけになってしまうだろう。
さらに2人の投身自殺(正確には枝里子については恐らく投身自殺)にあたって、晶子は2人の背中を押すなどの具体的な手助けをしたわけではない。
枝里子の自殺の際には、彼女に言われるがまま先に下山しているし、華代の自殺に際には彼女が自ら火口に飛び込んだ様子を男性が目撃している。
自殺ほう助にしては、自殺の後押しが消極的過ぎるのだ。
どちらかというと、2人の女性の自殺劇に無理矢理登場させられたような色合いが強いように思える。
2人の自殺を巡る、晶子の心中や本人の罪の意識までは分からないが、少なくとも社会から罰せられるようなものではなかったはずだ。
晶子の最期
人の噂も七十五日とは言ったものだが、言った方が忘れてしまっても、言われた側は忘れることなどできやしない。
一転した生活の中で、ただただ友人2人の冥福を祈っていた晶子だったが、4月29日、急逝する。
死因は髄膜炎と見られており、病死であった。
それでもマスコミは晶子の死を「謎の急死」と囃し立てた。
それはあたかも晶子が自らの行いを苦にして自殺したのではないか、はたまた2人の友人の怨霊に導かれたのではないか、と世間の噂の種になるような書きぶりで、到底晶子の安らかな眠りを願うようなものではなかった。
ただ、晶子の死がただの病気によるものではなく、1人の若い女性が突然背負うには重すぎるストレスが、病状に影響したであろうことは想像に難しくない。
5月3日には晶子をはじめとする3名が通った女学校の東京湾旅行が実施され、船上から全校生徒が三原山の白い噴煙に向かい、黙祷を捧げたという。
かねての華代の願いを叶え、真心から3人の冥福を祈ったであろうこの祈りだけは、ささやかなながら天に上った晶子の心を慰めたのであればいいのだが。
殺到する自殺志願者~三原山ブーム
さて、登場した3名全員が死亡するという悲劇を迎えた自殺劇であったが、話はここで終わらなかった。
華代の自殺から10日後、神奈川県在住の25歳男性が三原山を訪れる。
この男性は自殺の恐れがあると地元の警察で保護され、迎えに来た兄らに身柄を引き渡された。
しかし、男性は「せっかく来たのだから三原山火口を見ていきたい」と懇願。
せっかく三原山から遠ざけたというのに、わざわざ兄らと共に再び山頂に向かい、彼らが目を離した隙に、火口に向かって勢いよく飛び込んで行ってしまった。
地元警察の努力も水の泡である。
しかもこの自殺を皮切りに、三原山には自殺志願者たちがひっきりなりなしに集まるようになってしまったのだ。
そのほとんどが助走をつけて火口に飛び込むものだから、下手をすれば自殺に巻き込まれてしまうため、おいそれと止めることもできない。
正確な数字こそ調べることはできないが、1933年だけで1000人近くが自殺すという異常事態となり、中には晶子同様に死の見届け人として、三原山まで同行する者まで現れる始末だった。
まさに自殺ツーリズムと言っても過言ではない。
三原山のある伊豆大島は思ってもみない形で一大観光地となってしまい、島は空前の三原山ブームに突入した。
三原山自殺の厳しい現実
さて、流行りの自殺スタイルとなってしまった火口への投身自殺だが、果たして身さえ投げれば、簡単に死ぬことが出来たのかというとそうでもない。
中には意を決して飛び込んだものの、本懐を遂げられなかった者もいる。
9月28日、23歳と21歳の女性2人が抱き合って火口に身を投げたものの、途中の岩盤に打ち付けられ気絶。
1人が目を覚ますと、足元から噴煙が立ち昇り、眼下には真っ赤な炎が燃え盛るまさに地獄絵図が広がっていた。
恐怖で正気を取り戻した女性はもう一方の女性を起こすと、2人で断崖絶壁を登り始める。
進んではずり落ちを繰り返すこと3時間、2人は全身血まみれの状態でなんとか火口まで辿り着き、九死に一生を得たという。
また、1935年の1月には彼氏の病状を憂いたカップルが心中を企て投身自殺を計ったものの、17、8歳ほどの少女が岩盤の裂け目に引っ掛かり逆さづり状態となってしまった。
この日も三原山火口は自殺志願者や見物客でごった返していたため、すぐに救助の手が入り3時間後ようやく助け出された。
なお、死を約束した男性の安否はわかっていない。
また、飛び込む場所が場所だけに、遺体の確認や回収は難しい。
自殺後、即死した者はまだマシだが、実際のところは途中の岸壁にひっかかるなどして一命を取り留めた者もいただろう。
先の幸運な生存者のように、自力で戻ってきたり救助されれば良いのだが、中には脱出することも助けを呼ぶこともできず、身投げした際のケガの痛みや飢えに苦しみながら死んでいった者も相当数いたのではないかと考えられる。
まるで夢物語のような三原山ブームではあったが現実はずっと厳しいものであっただろう。
三原山ブームの終焉
熱に浮かされたかのような三原山ブームであったが、それもやがて終焉を迎える。
考えられる大きな理由は3つ。
1つは島民らの必死の自殺引き止めだ。
一部には突然始まったムーブメントによる来島者数の増加とそれに伴う経済効果に浮かされたいた面もあったものの、自殺のメッカのごとく扱われ島の名誉にも関わる状況になると、自殺志願者たちをなんとか思い留まらせようと行動を起こす。
自殺を諦めるよう標語を書いた看板を背負って島内を練り歩いたり、三原山山頂付近の見回りを行ったりと出来る限りのことを実践した。また、三原山を中心とする伊豆大島そのものが活火山であり、気象庁のHPによれば1933年から1940年にかけて規模は大きくないものの、噴火を繰り返している。
この噴火も山頂から人々を遠ざける要因となったはずだ。
そして最も大きな理由が世相の移り変わりとマスコミの自殺報道離れだろう。
もともと1930年代の日本は、政党政治が崩壊し軍部が台頭、満州事変を契機に対外侵略が強化され、常に戦争の暗い影が見え隠れする時代だった。
そこに1936年、二・二六事件が発生。
否応なしに日本は戦争への道を突き進むこととなり、報道も同様にその色に染まっていった。
メディアも三原山での自殺騒動に時間と記事を割いていられなくなってきたのだ。
人々の生活にも戦争が浸透していくと三原山と大量の自殺志願者らの存在は徐々に忘れられていく。
こうして戦争時代の始まりと共に、三原山ブームは終焉を迎えることになったのだろう。
なぜ三原山ブームは生まれたか
最後に今後への戒めも込めて、なぜ三原山ブームが誕生したのか考えてみたい。
メディアの過度な報道がブームを醸成したことは明らかなのだが、ブームのきっかけになった枝里子、華代、晶子3人による自殺劇場になぜ人々は熱狂してしまったのだろうか。
1933年、昭和の初頭は、明治の終わりから大正時代にかけて大衆に浸透した耽美文学の隆盛が落ち着いた頃でもある。
耽美文学とは、道徳性よりも美の追求を至上命題とした文学のこと。
美の追求の手段として、禁断の愛や死の渇望など背徳的なモチーフが扱われることが多々あった。
さて、三原山ブームのきっかけとなった華代らの自殺から晶子の人生の終焉までの軌跡を思い出してみよう。
世を儚む若い女性、女同士で交わされた秘密の約束に歪んだ友情、そして大自然に身を投げ消えていくという壮大な自殺に晶子の哀れともいえる最期。
まるで1つの耽美小説のようであり、空想上の物語が実写化したかのようでもある。
もしこの一連の事件が実写化した物語だとすれば、華代ら3名の登場人物はさながら女優だ。
現代においても、俳優やアーティストといった著名人の自殺に感化され後を追うように命を人は少なくない。
この現象と同じようなことが三原山ブームに繋がったのではないだろうか。
ウェルテル効果
なお、著名人の自殺というニュースに触れて、命を絶つ人が増えるこの現象はウェルテル効果と呼ばれている。
ドイツの文豪ゲーテの「若きウェルテルの悩み」に由来しており、同作出版後、主人公と同じように自殺した若者が相次いだのだ。
「死んでしまいたい」というぼんやりとした思いを抱えている人が、著名人の自殺に触れることで、「自分と年齢が近い」、「境遇が似ている」、「著名人の作品が自分のこと言っているようだ」など共通点を探し出し、亡くなった著名人と同じ道を辿ってしまうのだという。
現在、厚生労働省は自殺報道ガイドラインを制定して、自殺報道を目立つように、かつ繰り返し取り上げないことや、場所や方法、状況といった自殺の詳細を伝えないことなどをメディアに求めている。
三原山ブーム当初の報道を振り返ってみると、ウェルテル効果を思い切り発揮させるような報道ぶりだ。
メディアの過熱した報道に触れ、自殺に感化された人々によって作られたものであることは容易に想像できる。
もし自殺を考えたとしても
熱に浮かされたように三原山に散った人々は、果たして本当にそこまでの死を切望したのだろうか。
死に際に一瞬の後悔もなく、そして死によって本当に苦しみから解放されたのであろうか。
月並みで当たり前のことではあるが、1度失われた命が戻ることはない。
もしも死を乞うようなことがあれば、せひ関係機関に相談してほしい。
三原山ブームのような事態が再び行らない世の中になることを願っている。
※画像はイメージです。


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