日本の歴史の中でも幕末と並んで高い人気を誇るのが、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康らが天下の覇権を賭けて争った戦国時代だと思われる。戦国時代は1400年代の後半から1500年代後半までの凡そ100年続いた戦乱期である。
前述した織田信長、豊臣秀吉、徳川家康ら所謂戦国の三英傑のように、結果的に天下をその手中に収めたビッグ・ネーム以外にも、戦そのものや時代においては彼らをも凌ぐとさえ言われる猛者たちも少なくない。
そんな一例を挙げるとするならば、戦国最強とも称された騎馬軍団を擁したとされる武田信玄、毘沙門天の化身を自称し武神と称えられた上杉謙信、弱小大名から中国地方の雄にのし上がった毛利元就など枚挙に暇がない。
こうした戦国時代で今日的に最強を謳われる大名は数多いが、戦術眼や戦略、治世、政治力に長け運にも恵まれたこれらの巧者達と真逆に、戦国の世で最弱という有り難くない称号を持つ大名もいる。
今回はそうした中でも特に自らの居城を、生涯9度も敵に奪われたとされる経歴を持ち、史上最弱の戦国大名と呼ばれる事も多い、常陸(現在の茨城県)の国の小大名・小田氏治を紹介して見たいと思う。
鎌倉時代より続く関東の名門 小田氏
小田氏治は小田家14代当主である父・正治の嫡子として、1531年若しくは1534年に生まれ1548年に世を去った父・正治の跡を受け継ぐ形で、小田家15代にして同家最後の当主を務める事となった人物である。
小田家自体は日本の武家の家系でも、特に由緒正しい源平藤橘と称される中の藤原氏の流れを汲み、摂関家の藤原北家の道兼の氏族の一員であった八田知家を祖に持つ、平安時代から関東の名族であった。
この小田家の開祖と言える八田知家が現在の茨城県つくば市に築いた平城の居城が小田城であり、実にその築城時期は1185年とも言われ、小田氏治の代まで凡そ400年に渡り連綿と受け継がれていたものだった。
小田家14代当主である父・正治は、自家を戦国大名化させて最大の版図を得る事を成功させたが、跡を継いだ小田氏治は周囲の常陸の佐竹氏・下総の結城氏・越後の上杉氏(当時は長尾氏)ら有力な戦国大名と対峙した。
こうした周囲に敵対する有力な戦国大名が多数存在し、彼らと幾度となく戦を繰り返した事もあって、最終的には小田氏治の代で小田氏は消滅の憂き目を見るが、そうした面子を敵とした事を考慮すれば寧ろ善戦したと言えるかもしれない。
因みに小田氏治は室町幕府で第12代将軍を務めた足利義晴とは従弟の関係であり、後に結城氏に出されその18台当主となった徳川家康の次男・秀康に自身の娘を側室として嫁がせており、血統が申し分なかった事は間違いない。
9度も敵によって落城させられた小田城
小田氏治が先祖代々の居城としてきた小田城は、9度敵に落城させらたと語られる事が多いが、これは徳川家康が天下を手中に収めた江戸時代に編纂された「小田軍記」・「小田天庵記」等の記述によるもののようだ。
その為、小田城が実際に9度も敵の手によって落城させられたのか否かは明確な事実かどうかは意見が分かれる部分だが、裏を返せばこれが事実ならば8度は小田勢によって奪還されたと言う見方もできる事になる。
そんな小田城の落城と奪還の事績をピック・アップして見ると、関東地方の弱小戦国大名として、何とか生き残りをかけて小田氏治の率いる小田勢が、必死の抵抗を繰り返していた事が窺える。
主な事績としては先ず1556年2月とされる結城・北条連合軍との海老ヶ島の戦いがあり、ここで小田勢は小田城・海老ヶ城を落城させられるが、同年8月には結城勢に逆襲そ行い、奪還を果たしている。
次に翌1557年若しくは1558年3月とされる佐竹義昭との黒子の戦いで小田城は落城させられるが、その翌年の1559年4月には佐竹勢を追い払い、その奪還をまたも成功させている。
更に1564年の1月若しくは4月とされる上杉謙信との山王堂の戦いに敗れ、小田城は落城、その後上杉謙信は配下に着いた佐竹勢に同城を与えるが、翌1565年12月に小田勢は佐竹勢を追い払い同城の奪還を果たす。
しかし翌1566年、再び小田城は上杉謙信の侵攻を受けて落城、しかし戦の後、小田氏治は上杉謙信に従属する事で許され、その配下となる事で同城を引き続き居城とする事を政治的な取引で実現させた。
そして1573年1月、今度は佐竹勢・太田資正の軍勢に小田城は攻められてまたも落城したとされるが、小田勢は佐竹勢に間髪を入れず逆襲に出て、何とかすぐに同城を奪還する事に成功している。
しかし同年3月とされる手這坂の戦いにおいて、再び佐竹勢・太田資正の軍勢に小田城は攻められて落城、佐竹勢・太田資正に対し小田氏治は北条氏と結んで対抗するも、これを最後に同城を取り戻す事は出来なかった。
ここに挙げた事績だけでも小田城は6度落城、5度奪還という経緯を辿っているが、居城を失っても個別の戦では佐竹勢・太田資正に勝利した事もあり、劣勢な中でも健闘したと言ってもよいのではないだろうか。
戦国武将として小田氏治の終焉
前述したように1573年3月とされる手這坂の戦いにおいて、佐竹勢・太田資正の軍勢に落城させられた小田城だったが、小田氏治は北条氏と結んで対抗を継続、遂に1590年1月の樋ノ口の戦いで戦国武将としての最期戦いを終える。
樋ノ口の戦いでは佐竹勢・太田資正の軍勢に対して善戦した小田氏治だったが、念願の小田城の奪還には至らず、結んでいた北条氏は豊臣秀吉の大軍勢による侵攻で動けず、その軍門に下った。
小田氏治は豊臣秀吉から号令を掛けられた北条征伐への従軍をしなかったかどで、残っていた所領の全てを戦後処理にて召し上げられる事となり、自身は豊臣秀吉の直臣としての臣従を申し出たが果たせなかった。
しかし豊臣秀吉は自身に従わなかったとは言え、子飼いの浅野長政の執り成しで小田宇氏治を処刑する事はせず、次男の結城秀康に娘を側室として嫁がせていた縁も考慮し、その食客として300石をあてがい処刑はせす済ませた。
結城秀康が1600年11月に越前国の北ノ庄68万石に加増の上移封されると、小田宇氏治もこれに倣ってに越前の浅羽に移住、子孫も結城家への仕官を赦され、小田宇氏治本人は翌1601年11月にその地で逝去した。
晩年は戦国武将ではなくなったとは言え、小田氏治は戦国の世を生き抜き天寿を全うしたと言え、「戦国最弱の武将」など揶揄される傾向もあるが、弱小の戦国武将としては健闘した部類だと見る向きも多い。
好敵手から見た小田氏治
小田氏治の率いた小田勢と激しい戦いを繰り返した隣国の佐竹氏の第17代当主・佐竹義昭は、上杉謙信対する書状で小田氏治を武勇は年と共に衰えたとしながらも、武人としての才を認め、その譜代の家臣も秀でた者が多いと評している。
居城である小田城を頻繁に奪われる憂き目に遭い続けた小田氏治ではあるが、名門の当主として領民からの信望も厚く、違う為政者が同城を治めた際には、その者に年貢を納めなかった等の逸話も伝えられている。
また小田城自体、如何に戦国の騒乱の時代とは言え、そこまで何度も落城の憂き目を見た点からは、平地に位置した平城であった事から守るに難のあった立地えはなかったのか、と言う説を唱える声も一部にはある。
小田氏治の個人的な評価
生き馬の目を抜かのような苛烈な戦国の世を弱小の戦国大名として生きるしかなかった小田氏治。何しろ理由はともかくとして居城である小田城を尋常ならざる回数に渡って落城させられた事実は変えようがない。
しかし佐竹氏等の周囲の有力な勢力に対抗する為とは言え、関東で一時期は強固な基盤を誇った北条氏に与した事は責めらず、豊臣勢の権勢を正しく認識して乗り換えていれば、戦国大名として存続できた可能性もあるように思える。
その場合でも石高は決して多くはない弱小大名から躍進する事は困難ではあったと思うが、時世を見通す眼力が今少しあったならばと、個人的には残念に感じてしまう武将ではある。
featured image:茨城県土浦市・法雲寺所蔵, Public domain, via Wikimedia Commons


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