ひと昔前、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」というブラックなギャグが流行した。ルールやモラルに反することも、大勢なら抵抗なくできるという集団心理を衝いた言葉だ。
その場にいるのが自分だけなら正しい判断ができるのに、なぜか人は群衆にのまれて愚かな振る舞いをしてしまう。あなたは集団がもつ見えない力を怖いと感じたことはないだろうか。
人混みでお年寄りが転倒してケガをする。観光スポットで迷子らしき子どもに気づく。手を差し伸べるべき状況であることはかっている。なのに誰も助けない。目撃者が多ければ多いほど。
このようなことが起こるのは、現代人が思いやりを忘れたからではない。「こんなに人がいるんだから誰かが動くだろう」、「自分がやらなくても誰かがスタッフを呼ぶはずだ」という集団心理が働くからだ。
もしあなたが不慮の災難に遭遇して助けが必要になったとき、30人の目撃者がいるよりも1人の目撃者がいるほうが幸運だ。その人は「自分がやらなければ」と責任を感じ、高い確率で対応してくれるだろうから。
緊急事態に直面し、援助を必要とする人がいる場合、多くの人が居合わせることで支援行動を起こしにくくなる心理現象を傍観者効果という。
わたしたちはどのようなプロセスを経て「ただの見物人」になってしまうのだろうか。
沈黙するバイスタンダー
「あれだけの衆人環視のもとで、なぜ事件が起きたのか」、「多くの目撃者がいながら、どうして被害者を救えなかったのか」などと語られる事件がある。いまだ犯人が逃亡中の池袋駅構内大学生殺人事件などは傍観者効果が発動した典型例だろう。「ケンカはやめたら」と犯人をたしなめた人物はいたのだが。
このような心理現象は日常の身近な場面でも頻発する。ビジネスの現場を例に引こう。
たとえば、進行中のプロジェクトに解決すべき問題があるとする。ところがメンバーが大勢いると、「上司が気づいているはず」、「鈴木さんが対処するだろう」と、つい他人まかせになってしまう。結果として問題は放置され、最悪の場合は手遅れになることもある。
かつてソニーで発生したリコールの対応遅延問題も象徴的な事例として挙げられる。生産ラインや販売部門といった多くの部署が関わっていたために責任の希薄化が起きてしまい、結果としてブランドイメージを損なう事態となった。
傍観者効果とは、 “bystander effect” を訳した心理学用語であり、米国の社会心理学者ビブ・ラタネによって提唱された。ここでいう「傍観者」とは、「なにもせずに見ているだけの人」のこと。
この集団心理が広く知れわたるきっかけとなったのは、ある婦女暴行殺人事件だった。社会心理学を学ぶ際に傍観者効果とセットで語られる事件である。
キティ・ジェノヴィーズ事件
1964年3月13日午前3時、ニューヨークのクイーンズ。
28歳のキティことキャサリン・ジェノヴィーズはバーのマネージャー兼バーテンダーだった。その夜、彼女はいつものように仕事を終えて店をでた。ナイフをもった変質者が待ち伏せていることも知らずに。
自宅アパートメントの前まできたところで暴漢は襲いかかった。背中を刺されたキティが大声で助けを求めると、アパートメントの窓にひとつ、またひとつと明かりが灯りはじめる。小さなどよめきに重なって誰かの怒鳴り声がした。
「おい、おまえ! なにしてるんだ! その娘を離せ!」
暴漢は声のしたほうを見上げて肩をすくめ、闇にまぎれて姿を消した。魔の手から逃れたキティは痛みをこらえながら立ち上がり、自分の部屋へよろよろと歩を運ぶ。やがて彼女はアパートの角を曲がり、目撃者の視界から消えてしまった。
騒ぎがおさまると、窓の明かりも消えた。すると暴漢は、それを見計らったかのようにふたたび姿をあらわしてキティを捕まえ、今度は致命傷を負わせた。鋭い絶叫が響き渡り、アパートメントの住人がまた部屋の明かりを灯す。なかには身を乗りだして外をのぞき込む者もいた。
しかし、誰も助けにこない。誰ひとり通報しない。30分におよぶ凶行のあいだ、彼らは傍観していただけだった。
午前3時52分、ようやく警察が到着したときは犯人は逃げたあと。キティは階段の下に横たわり、すでにこと切れていた。
キティ・ジェノヴィーズの悲劇は大々的に報じられ、世界中の紙面を飾ることになる。
記事の主役は犯人ではなく、キティでもなく、アパートメントの住人だった。各紙はこぞってこう書きたてたのだ。
「クイーンズ郡キューガーデンの遵法精神に富む立派な市民38人は、30分間にわたって暴漢が女性を殺すのを“見ていた”」
ここで補足しておかなければならないが、じつはこの事件、初期報道に事実誤認や誇張があったことが後年の調査で明らかになっており、実際には通報した人物もいたことがわかっている。しかし現場がニューヨークだったこともあり、事件直後はもっぱら大都会の人々の冷淡さ、無関心さに焦点が当たることになってしまった。なかでも広く受け入れられたのは、「この事件は人間性の恐ろしい現実を物語っている」というニューヨーク・タイムズ紙の分析だった。
社会心理学者による実験
しかし、こうした世論に疑問を抱いた社会心理学者が2人いた。ビブ・ラタネとジョン・ダーリーである。
「キティを殺したのは本当に都会人の冷淡さや無関心なのだろうか。そうではなく、多くの目撃者がいたからこそ最悪の事態を招いたのではないか」
2人はそう考え、人間が「ただの見物人」になり下がる心理状態を解き明かそうとした。
その実験はこのようなものだった。
被験者の大学生に討論会に参加してもらう。
彼らを2名、3名、6名のグループに分け、グループごとに討論を行う。
グループの全員が一堂に会して討論するのではなく、1人ずつ個室に入れて、マイクとインターフォンを通じて討論を行う。相手の顔は見えない。
各グループに1人のサクラを仕込み、途中で心臓発作の芝居をしてもらう。サクラは他の参加者に助けを求める。
このときに各グループがどのような行動を起こすのかを確認する。
以上の実験を被験者を変えて何度かくり返す。
その結果、2名のグループ(1人とサクラ)では全員がサクラを助けようとしたのに対し、6名のグループ(5人とサクラ)で援助行動を起こす人は60パーセント台に低下することがわかった。つまり他者の存在は、人助けをしようとする気持ちにブレーキをかける働きがあり、その働きは周りにいる人が多いほど強まることが確認されたのだ。
2人はこのほかにもいくつかの実験を行い、「傍観者効果は性格にかかわらず、誰にでも起こりうる」と結論づけるにいたった。
キティを殺害したウィンストン・モーズリーは強盗、強姦、強姦殺人の常習犯であり、このような傍観者の心理を経験則として見透かしていたふしがある。のちの裁判で「なにを思って目撃者が多数いるなかで犯行におよんだのか」と訊ねられて、彼が返した恐ろしい言葉を記しておこう。
「目撃者? べつに見られてもかまわないぜ。あいつらはすぐに明かりを消して寝るだけだ。ごらんのとおりだよ」
傍観者はなぜ生まれる?
では、このような現象を引き起こす要因はなんだろうか。先に触れた責任の希薄化はそのメカニズムの核となる心理状態ではあるが、これを取り除けば防げるというわけでもない。社会心理学の専門家たちは、他のいくつかの要因も複雑にからみ合うと分析する。今回は大きな要因を三つ挙げる。
大勢いるから自分が行動しなくても責任はない~責任の分散
責任の分散とは、あるトラブルが起きたとき、周りに人が多いほど責任を感じにくくなる心理状態をさす。
たとえば、深夜の路上に誰かが倒れていたとする。そこに通りがかったのが自分だけだったにもかかわらず、つい見て見ぬふりをした。では、そのことがあとでばれたらどうなるか。おそらくは非難され、ことの次第によっては責任も問われるだろう。それゆえに、1人の目撃者は見て見ぬふりができなくなる。
しかし、そこに100人が居合わせたらどうだろう。なにか問題が起きたとしても自分だけが責められることはない。責任が軽くなれば
行動も鈍る。そこには「自分だけではないから大丈夫」、「みんなと一緒だから大丈夫」という自己防衛の心理が働く。
責任の分散は集団の規模が大きければ大きいほど生まれやすい。とりわけ和を乱すことや波風を立てることを恐れがちな日本人は、こうした傾向が強くなる。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」というのは日本人の国民性を言い当てた言葉でもある。日本語に「正論を吐く」という言い回しがあるが、正論という道理にかなった意見でも、「吐く」というネガティブな言葉と使われる。しごく真っ当な理屈でも、場の空気を読みながら発言しないと和を乱すことになり、煙たがれてしまうのだ。
誰も行動していないから緊急性はないと思いこむ~多元的無知
周りの人がなにもしないようすを見て、「ああ、これは深刻な状況ではないのだな」と誤った判断をしてしまうことを多元的無知という。「ひょっとしたら、おかしいと思っているのは自分だけなのではないか」、「自分の感じ方がまちがっているのだろう」と錯覚してしまうのだ。
あるとき児童が誘拐された。現場にいた目撃者たちは、ただ見物しているだけだった。騒いでいる人はいないし、通報もしていないようだから、連れ去った人は知り合いだったのだろうとみんなが思いこんでしまったわけだ。
このように、その場にいる全員が目撃しているにもかかわらず、全員が緊急性なしと判断してしまうケースもある。どれだけ多くの目撃者がいても、誤った思いこみが発生した時点でアウトとなる。
周囲の反応は、ときに「行動しなくていい」と示すサインになりうるのだ。
恥をかきたくない~評価懸念
人間の行動原理はネガティブな理由のみに根ざしているわけではない。純粋に人を助けたいという気持ちだって、もちろんある。
とはいえ、もし行動を起こしたら、その結果が周囲からどう思われるかという不安もつきまとう。人は自分の行動が他者にどう受けとめられるかを常に意識している。
否定的な評価を恐れるあまり、「行動を起こして失敗するくらいなら、はじめから行動しないほうがよい」と考えてしまうことも傍観者を生む一因となる。これが評価懸念である。
電車でお年寄りの女性に席を譲りたいけれど、相手は「失礼ね、そんなにおばあちゃんじゃないわ」と思うかもしれないし、断られるかもしれない。「人前で恥をかくくらいなら最初からやらないほうがいい」と考えて沈黙してしまう。
行動を起こしてリスクを負うくらいなら、いっそスルーするほうが賢明だと思ったことはないだろうか。こうした心理は緊急の際においても同様に働く。
人は美談より醜聞を好む
人間は太古の昔から集団生活を営み、協調することを学んできた。この社会で生きているかぎり、わたしたちの行動は良くも悪くも他者から影響を受けている。
そのために個人の主張や行動をセーブすることもある。「右へならえ」は集団生活のなかで身についた一種の防衛本能なのかもしれない。
キティ・ジェノヴィーズ事件が起きた当時は911緊急電話番号はなく、善きサマリア人の法も存在しなかった。結果として、アパートメントの住人は彼女を救えなかった。
傍観者効果は、いうまでもなく集団心理のマイナスの側面ではあるが、それは目撃者が冷淡だから起こる現象ではない。周囲の群衆から影響を受けることで誰にでも起こりうるということを強調しておきたい。また、集団心理にはプラスの側面ももちろんあり、逆に集団だからこそ成し遂げられた救出劇もある。
本事件の犯人ウィンストン・モーズリーのように、社会心理学者が実験を重ねて明らかにした集団心理を犯罪者がすでに知っていて、悪用していたという事実は非常に興味深い。大勢に目撃されたにもかかわらず犯罪行為をやめず、逃げもしない人間がいたとしたら、その悪党は傍観者の心理を理解している可能性がある。
最後に、メディアではほとんど報じられていないモーズリーの最期についても触れておこう。
事件の6日後、同じクイーンズの住人ラウル・クリアリーは、見知らぬ男が近所のバニスター宅からテレビを運びだそうとしているのに気づいた。「そこでなにしてるんだい?」と声をかけると、男は「引っ越し業者だよ。バニスターさんが引っ越しするんでね」と答えた。訝しんだラウルは隣人に電話をかけて確かめた。
「なあ、ジャック。バニスターさん引っ越すんだって? おまえ、なんか聞いてるか?」
「引っ越し? なに言ってんだ、そんなわけないだろ!」
2人はためらわなかった。男の車をパンクさせ、警察に通報したのだ。
男はすぐに逮捕され、犯行を認めた。不法侵入、窃盗、そして6日前にキューガーデンで若い女性を刺したこと。
傍観者効果の恐ろしさを世に知らしめたキティ・ジェノヴィーズ事件の犯人は、わずか2名の目撃者によって罪を贖うことになった。
その後、モーズリーは81歳で獄死した。
38人の沈黙した目撃者の話は人々の口の端にのぼるのに、行動を起こした2人の話はいっこうに拡散しない。
人が美談よりもスキャンダルを好むのは、いつの時代も変わらない。


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